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再び受験生のために

 

今回受験生の方よりメールを頂きました。その方の通った教室の問題もあるのかもしれませんが、いくつか誤解されている点もあるようなので、私なりに考えてみたいと思います。

 

1 受験勉強と速読について

まず、受験勉強と速読の関連なのですが、速読を修得したからと言って、受験勉強に貢献する度合いは、あまり高くないと、私は思います。

教室によっては、この点を非常に強く押し出している教室もあるようですが、私は実際はあまりないと思ったりしています。まあ、意見が分かれる所ですし、教室によっては、予備校も驚く程の宣伝を行っている所もあるみたいですから、関係はあるのかもしれません。

ただ、予備校もそうだと思うのですが、その予備校に行ったからと言って、全ての人が同じ成果を上げられる訳ではないと思います(当たり前の話しです)。例えば、S台予備校の××コースに行ったからと言っても、全ての人が東大や京大に合格する訳でもありません(そんな事があるなら、私も見てみたいです)。また、K塾やYゼミナールに行ったからと言って、同じコースに通っていた方たちが同じ大学に合格するはずもありません。

どうしてこの様な差が出てしまうのかと言う事は、予備校に考えてもらうとして、ユーザー側としては適切なコースを選びましょうと言う話しにしかならないでしょう。いくら合格率が高い講座に行っても、自分が努力しなかったり、自分が必要とする情報を提供してくれない予備校だと、あんまり意味もないでしょうから。

この事と同じ様に、例え速読を修得したとしても、目的が漠然とした物であれば、受験勉強に直接役に立つと言う事はないと思います。学習効率を漠然と上げたいと思って、受講するなら、私は速読教室には通わない方が良いと思います(本心です)。止めるつもりはありませんが、せめて受講する前にもう少し良く考えてから受講した方が良いと思います。

速読も技術ですから、自分に欠けている物を補うために、修得するはずです。その欠けている物によって、速読を修得する事の意義も決まると思います。その自分に欠けている能力が何なのかで、速読を学ぶ意義も決まると思うのです。これは、他の予備校などの講座に通うことと同じであると、私は思ったりしています。英語が苦手な人が、英語を苦手とする学生に教える事を得意とする先生の講座をとり、努力する事と同じだと思ったりしています(もちろん、英語を習うと言う事と、速読を習うという事は、等価ではあり得ません)。英語を習う必要もない人が、英語の講座をとる事自体が時間の無駄でしょうから。そんな時間があれば、他の勉強でもしていた方が良いでしょうし。

以前速読を学ぶ意義という物はないのではないか、と言うご意見を頂いた事がありました(同趣旨の意見として、2ちゃんねるでも存在していました)。確かに、速読は全ての方にとって有用な技術でもなければ、意味のある技術ではないと思います。ただ、「意味がある」か、「意味がないの」かと言う事は、自分に欠けている物が何なのかと言う事の関係で、意義があるのかと言う事が決まるのだと、個人的には思います。本を速く読む必要性を感じない方や本を速く読むという行為に対し否定的な意識をお持ちの方に、速読の効用を述べる事自体が、無意味だと、個人的には思います。

この点は、受験生の方も同じだと思います。なんで修得しようと思ったのかと言う事を、曖昧なまま受講すれば、得る物も少ないでしょう。曖昧ならば、受講しない方が良いだろうなーと個人的には思います。

ちなみに、速読教室は速読こそが成功のパスポートと言う宣伝を行っています。それが嘘か本当かは私には分かりません。寺田氏ではありませんが、ひょっとすると世界にはたくさんの成功者と言われる方たちがいて、その人達が速読を影で習っているのかもしれません(寺田 速読の広場参考)。だけれど、常識的に判断すると、もし速読が成功のパスポートだとすると、多分誰もそのパスポートを教えてくれないと思います。成功のパスポートだからこそ、誰も教えてくれないのだと思います。富の集積の仕方からしても、最初に成功した方が得でしょうから、誰が後の人間にそう言うおいしい話しを教えてやるんだと言う話しになるでしょう。もし本当に速読を習う事によって無条件に成功するというならば、速読の効用は隠され、秘伝とされてしまうにちがいありません。

誰もが習えるという事は、その程度の道具であると言う事だと、個人的には思います。少なくとも成功を確実に約束する道具ではないと言う事なのだろうと、個人的には思っています。要は、価値がある人には価値があり、ない人には全く価値がない程度の道具でしかないという事なのでしょう。

確かに、はさみは確かに便利な道具ですが、誰もが上手にはさみで紙がきれいに切れる訳ではありません。誰もが同じ道具を手に入れたからと言って、良い道具の使い手になれるとか、ましてやその道具をうまく使えるとは限らないでしょうから。この理は、速読においても同様だと思います。目的に合わせてうまく使わないと、結局速読も無意味な道具となってしまうと、私には思えます。


2 速読ができるからと言って全てが暗記できるのか

この点は、私は無理だと思います。単語レベルならともかく、全文を記憶する事は私には少なくともできません。また、私の場合、単語レベルの物でも、場所で覚えますので、全く意味がありません(要は、●●ページの真ん中あたりと答えますから)。

この記憶法を特別視する方たちもいる様なのですが、実際の社会でもよく見る記憶法の一つでしかこの記憶法はありません。例えば、法律の試験を受けている人たちが、六法全書に書かれた場所で条文を覚えているとか、英語が得意な人たちが、熟語や単語の場所を●●ページの●●に書いていなかったけ、等という事と同じです。

右脳記憶等という非常によく分からない言葉を使うので、分かりにくいですが、ある程度回数を稼げば誰でもできる事ですし、その程度の技術に過ぎません。まあ、記憶術というなら、まだ分かりますが、速読法の中に記憶と言う要素を持ち込む事に、否定的である私のスタンスからしますと、あんまり「記憶」「記憶」と言われると、なんかなーと思ってしまいます。

ところで、何かを覚えると言う事は、結局覚える事をしぼり込む作業と覚える対象を整理すると言う事なのかなーと思っています。速読がある程度関与できるとすると、どちらかというと前者の方なのかもしれません。覚えることを絞り込むために、資料を概観するとか、過去問題集などを見ていくと言う作業なのかなーと言う気がします。

もっとも、学習法の参考書もたくさん現在では出ている様ですので、そちらを参照された方が良いのかもしれません。速読教室が言うことよりは、この手の本の方が説得力がありそうですから。

 

3 数値について

多くの速読教室が言う一万字は初めて読む本ではなく、一度読んだ事がある本を対象とし、それもあらすじが確認できる程度の物となっています。また、これは推測でしかありませんが、直感的にはこの一万文字という数値は、多分初見の本(それも一般書に限定すると)では、五千文字前後(教室によっては、三千文字位になる事もあり得ます)の数値になると思います。

実は教室が言っている数値は、さほど非常識な物ではありません。遅い人や小学生くらいで大体200文字位ですし、速い人では三千文字前後で本を読まれる方(かなりレアなケースだと思いますが)もいます。ですから、五千文字が非常識かと言われますと、実は非常識ではないと思っています(私が言う一万字と少し違うと思います)。

ところで、問題は初見の本で一万文字読めるようになるのは、いつなんだと言う事があります。教室によっても異なるので何とも言い難い所があります。ただ、三日で初見の本一万字コースと言うコースがありましたら、そう言うコースはどちらかと言いますと、読み方の速読法に傾斜した教室だと思います。

フォトリーディングや斉藤先生の教室が、三日間などの限定されたコースを提供していますが、これらの教室が提供している方法は、どちらかと言うと読み方を教えると言う要素が強く支配している感じを受けます。「速読おたく」に過ぎない私が言うのもなんなのですが(「速読おたく」に関しては、フォトリーディングのホームページを参考にして下さい)。

ですので、三日習った後での練習が非常にこういうコースでは大切になると思います。フォトリーディングでも技術が使える様になるまで、時間がかかると言う事を肯定していますし、斉藤先生のように目的に合わせ読み方を変える教室の場合、適切な読み方を探し出す事にも、能力がある程度必要になるでしょうから、時間がかかる事は当たり前です。

こういう教室が提供するプログラムですらも、技術の使い方を提供するだけで、この技術を磨くかどうかは、その人次第と言う事になるのだと思います(ポール.R.シーリー あなたも今までの十倍本が速く読める 参考)。

となると、目に見える成果は一体どのくらいになると出るのだろうと言う話しになるのですが、五千文字前後でしたら、比較的短期間でも可能かと思います(集中したコースでも、一週間もあれば可能であると思います)。

以前も言ったと思うのですが、暇な時期に速読講座の様な物は受講するに限ると言う事でしょう。どういうコースをとるにしても、ある程度練習が必要と言う事ですし。ですから、あんまり無理をした日程などは組まない方が良いと思います。習ったら、すぐに効果が出るというのは、幻想でしょうから。


3 複数行読みの問題について

この件に関しては、あちらこちらで取り上げているので、今さらと言う気もするのですが。私の方でもそれなりの答えを出しておりますし、私自身はどちらでも良いと思います。

ところで、以前複数行読みの件について書いたとき、非常にご不評と好評を頂いたのですが、実はあのときあえて触れなかった問題があります(ここここでは触れていません)。それは、複数行読みの場合、全ての文字が入力されていないのではないか、と言う疑惑があると言う事なのです(充実感がないと言う言葉で、前回書いた時にはごまかしているのですが、複数行読みを選択した際に、感じる充実感の低さはこの問題が原因していると私は考えています)。

この疑惑なのですが、別にブロックで読んでいるので、単語が全部入力されていないと言うお話とは少し違います。この疑惑を読み解くためには、いくつかの前提問題をクリアーにする必要があります。そこで、複数行読みが前提とするブロック読みと言う事にさかのぼり考えてみたいと思います。

ブロック読みと言う読み方は、通常の本の読み方と違う読み方をしています。ある程度のブロックを維持し、そのブロックを下位ブロックへと視点を移動しながら読んでいきます。

そして、複数行を読むときも同じ様に読んでいく事になります。実はこの点に関しては、いくつかの批判が既に行われております。ここでの対立点は、一つにまとめる事が可能かと思います。それは、文字を順番に入力しなくても理解できるのか、と言う事でしょう。つまり、情報を正確に時間順に入力していかない限り理解できないと考えるのか、が見解の分かれ道になると言う事だと思います。

この点については、以前既に整理してしまいましたし、他の方の意見も読むことができる状況がありますので、今更私の方で付け加える必要もありません。残念ながら、この問題は複数行読みの根本的な問題を示した物ではないのです(タントさんのプライベートサーバーでも、複数行読みの問題点は異なった所にあるのではないか、一万文字以上読むメンバーの方−特にD氏及びR氏より、度々指摘されてきた事でした)。

では、何が問題なんだという話しになるでしょう。それが、文字の入力の荒さと言う点にあるのです。ブロックを移動すると言う作業は、佐々木博士が言う古典的な速読の問題点でもある視点の移動と停止を繰り返すという極めて非合理的な視点移動でもあります。ただ、問題の原因はここにあるのですが、更なる問題が新たに生み出され来る可能性が実はあったりすのです。

複数行読みでは、ブロック数の範囲を広げる事で、スピードを上げていく事になります。そこで、試しにやっていただきたいのですが、ある程度視野を広げて、その視野の中心となっている所を線でつないで頂きたいのです。すると、その際の視点移動の軌跡は、非常に無駄の多い、でこぼこした視点に移動を行っていると言うことがお分かり頂けると思います。

ところが、実際複数行読みを前提とする教室でも波形又はV字型の移動ラインをとります。実際、視点移動及び視野が拡大されたブロックを移動させても、このようなV字型や波形の視点移動は行われていないはずなのです。速読が理想とする視点移動を実現するためには、もうワンクッション必要なはずなのです。

このワンクッションが実現されず、波形やV字型の視点移動を実現しようとすると、いくつか意識的に入力されてない文字列が存在しているのではないか、と言う疑問が生じます(特にブロックが下がり、また上のブロックへと戻る時に問題が生じます)。全ての文字が意識的に入力されていないのではないか、と言う疑義が生じると言う問題が生じます。

もちろん、この複数行読みの持つ問題点を全くどの教室も意識していない訳ではありません。川村博士ならば、よりパターン訓練を強化すると共に多くの本を読もうと言うのが、その対策法になるでしょう。同研究会の理論に従えば、複数行読みという読み方に慣れ、かつ知識を増やしていく事によって、違和感をなくしていくと言う方向性になると思います。また、栗田先生ならば、違った方向性がありそうです。他の想像力などを開発する事と緻密な視点移動を行う事でで、この違和感を突破しようとされるでしょう。はたまた、他の方法としては、複数行読み自体を放棄してしまおうと言う方が現れる可能性もあるでしょう。更には、文字を意識的に入力しなくても、突破が可能であるとする速読教室も存在します。

私自身としては、そう言う突破法もあるのだろうけれど、複数行読みを違った視点から見れば、突破が可能ではないかなーと思っております。詳しくは、相談室の方に書いてみたので、ご参考にでもして頂ければ幸いです。現在、タントさんのプライベートサーバーを使って実験中となっています。結構、うまく行きそうな雰囲気にはなっているとは思うのですが。

一応ヒントなのですが、以前Dizzy氏が指摘されていた様に、複数行読みをある程度放棄すれば良いだけの話しなのです。さすが、某速読研究会に通われて、一万文字以上読まれたDizzyさんです。この点に関し、以前彼の掲示板でも答えたのですが、彼が指摘したアプローチは半分正しくて、半分間違っています。何言っているんだという事なのですが、私が想定しているのは、視野の保ち方を変えてしまうと言う事なのです。この視野の保ち方を変える(ページ読みなどに変えると言う事ではありません)事によって、この問題はクリアーされるはずだと思ったりしています。この実験の進行具合によって、どうするか決めようと思います(分かりにくくて申し訳ありません。もう少し目に見える成果が出たら、アップします)。

それはともかくとして、受験生の立場に立ちますと、複数行読みが嫌いなら、その教室には行かない事が一番だと思います。受験生が複数行読みの是非について考えることが、受験対策上得策とは、私には思えません。むしろ、他にやるべき事はたくさんあるのでしょうし。また、五千文字前後のスピードでも十二分に目的にもよると思うのですが、目的は達成可能かと思われますが。突破法も色々あると思うので、良くご検討されてから受講された方が良いと思います。

 

4 結局は

いつもと同じ結論なのですが、結局自分の何を補いたいのかと言う事が、大切な様な気がします。

速読をやりたいと思う理由は色々あると思うのですが、受験生の方の場合、やっぱり自分には何か他の人と比べてないもの又は弱い物があるなーと思うから、やるんだと思うんですよね。例えば、本を他の人と比べて速く読めないと言う事は、その理由の一つでしょうし、他の人と比べて、知識は遜色ないのに、事務処理する能力が低いと言うのも、一つでしょう(もっとも、後者の場合、知識がないだけかもしれません)。また、細かい所ばかり目がいきすぎて、大きい物を見逃してしまうと言う性格的かつ物の見方に関する物まで、いろいろあると思うのです。

ここら辺を曖昧にしたままで、受講したとしても、あんまり得る物がないんじゃないかなーと思ったりしています。そう言う目的(自分にないものを足していく)をはっきりさせていく事は、タントさんではありませんが、速読の練習においても有益なことだと思ったりしています。

趣味でやる、更に本を読みたいからやると言うならば、その方が自分にとって一番合う教室に行けばよいと言う話しになるでしょう。

ただ、本当に多くの受験生が必要としているのは、勉強だと思うんですね。確かに、勉強し慣れていない方が、速読法をやると言う事は、良い事だと思います(読むと言う作業が苦痛だという方は特にでしょう)。ただ、その場合追い求めるべきは、数値ではないと思うんですね。リラックスして読むと言うことに慣れる事や、情報入力しても疲れない頭を作る事だと思ったりしています。そう考えると、何も一万文字の教室に通う必要性はないし(SRRの無料版を使うか、タントさんが運営されるプライベートサーバーにでもお出でになれば十分だと思います)、お金を払ってまでやる必要があるのか、と言う事になると思います。

速読は、本を読むという作業を加速すると言う役目を果たしているに過ぎません。読み始めなければ、加速される事もありませんし、合格する事もないでしょう。個人的には、合格するまで速読はやらないのか、頭の体操もかねて、一日一五分〜三〇分くらい練習するか、このあたりが適切なラインかなーと思ったりしています。

 

2002年09月07日 公開


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