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イメージ訓練

 

一時いろいろな方よりメールでご質問を頂きましたので、この点についてお答えしたいと思います。この訓練は、多くの教室で行われている訓練様です。また、苦手な方も多く、どうもうまく行かないと嘆かれる方を多く見ます。メールをくださる方たちの中には、イメージ訓練ができないと速読ができないのでは、と述べる方もいます。果たして、イメージ訓練ができないと速読ができないのか、と言う事を考えてみたいと思います。

ただ、メールを下さる方たちは、皆さん思い思いの意味をこめてイメージ訓練という言葉をお使いになられています。そこで、まず概念の整理をした上で、このイメージ訓練が速読修得においていかなる位置づけにある物なのか、を考えてみたいと思います。

1 二つの種類のイメージ訓練
実は、言い方は様々教室間によって違うのですが、このイメージ訓練は大きく分けると二種類、小さく分けると三種類があります(ここでは便宜上二つで話を進めます)。タントさんのプライベートサーバー上で、この二つが未分化のまま語られる事が多く、議論を錯綜させてしまった事があるようです(その点については、タントさんのプライベートサーバー上にある掲示板のスレッド 「イメージ訓練について」と「速読を取り組むにあたって」を参考にされて下さい)。

そこで、イメージ訓練を二つに分けてみます。二つに分ける場合のキイワードはイメージ化する際に何を思い浮かべるのかが問題となります。ここでは、思い浮かべる対象によってイメージ訓練という物を分けてみたいと思います。

一つ目は、文字通りイメージする物は、記号としての文字をそのままイメージすると言う事です。俗に言う写真記憶と呼ばれる物です。例えば、本を見て、本に書かれた文字を、意味から切断し、クロスワードパズルのバラバラになったピースを頭の中に思い浮かべるように、文字群を思い浮かべると言う物です。

元々、この方法は俗に言われるキム式の教室(多分、今ではかなり原理的なキム式の教室しかこの訓練はしていないと思います)で行われていた物とされています。以前も書きました速読法殺人事件(若桜木 虔 速読法殺人事件 朝日ソノラマ)で登場した悪い速読教室が行っているのが、この写真記憶と呼ばれる物です。

もう一つが 文字を記号として思い浮かべるのではなく、そのイメージを思い浮かべる物です。例えば、ヒーローという単語から、スーパーマンを頭の中で思い浮かべたり、勇気と言う単語から、兵隊さんを思い浮かべたりと、その単語が持つイメージを頭の中で画像化すると言う物です。

この二つのイメージ訓練を説明する際に、どちらの場合も良く画像化と言う言葉を使う事があるのですが、画像化する対象が、この両者では全く違います。前者は、文字を文字として、意味から切断した上で、画像化し、後者はその単語や文章が持つイメージを具体化した上で、画像化します。

ところで、三つに分ける時はどうなるんだ、と言うお話があると思います。三つに分けるというのは、二つに分けた際に、単語や文章が持つイメージを具体化し、画像化すると言う物を二つに分ける場合を言います。今回書いた物だと、それは3と4の項目に当たる物となります。

2 文字を記号として思い浮かべる訓練
実は、以前も書いたのですが、私は文字を文字として思い浮かべる訓練の意味については、懐疑的です。それは、幼児期において見られる記憶の特徴を、大人になった人にもそれを無原則的に当てはめるのは、どうなのかなーと思えるからです。

小さなお子さまと、神経衰弱をやると分かると思うのですが、彼(女)らは実によくカードがあった位置を覚えています。文字通り、彼(女)らがカードの位置関係によって、そのカードがあった場所を記憶しているからだと思うのですが、こういう能力が大人になっても全ての人にあるのか、どうかは、私には分からないし、それが良い事なのかどうかも、私には分かりません。

キム式の教室が、ブームに火をつけならがらも、今ひとつ方法論として普及しなかったのは、写真記憶と言う物をあまりに強く押しだし過ぎたせいではないかと私には思えます(同趣旨の物として、川村 速読トレーニング)。

2 文字をイメージとしてとらえる訓練
文字をイメージとしてとらえる訓練については、以前も2ちゃんねる上で議論が闘わされていた様です。

ところで、この訓練を考えるにあたり、なぜこの訓練が行われるのかと言う事を考えてみたいと思います。多分なのですが、この訓練は右脳開発の一環として行われている様に思われます。もちろん、教室によって温度差はあるし、右脳開発と言う言葉でくくれるほど単純でもないと思うのですが、まあ右脳開発と言って良いように思います。

右脳開発と言っても、別に変な事を意味しているわけではなく、結局速読とは右脳を使ってやる読書、右脳はイメージを扱う場所、だからイメージで本を読むはず、と言う暗黙のストーリーが、この訓練の背後には隠されている感じがします。

このストーリーが正しいのかどうかと言う事が、最終的にこの訓練の意味を考える事になると思います。私の個人的な意見なのですが、速読が右脳を使う読書だとしても、イメージを浮かべながら読むと言う事は、結果に過ぎないと思います。度々、プライベートサーバーでも話題になっているのですが、速読を修得したメンバーの方にしても、イメージで読むと言う事を目的として、速読を行っている方はいないように思います(結果として、そのように読まれる方もいますが、それはあくまでも結果に過ぎない様に私には思えます)。

結局の所、イメージが読んでいる最中に浮かぶと言うことは、結果に過ぎない様に思われます。その結果にしか過ぎない物を、速読の読み方として、自己目的化する事は正しいことなのか、私には少し疑問です。

とは言え、いくつかの教室のプログラムを検討してみると、どうもこのイメージ訓練が、他の訓練とどのような関連に立つのか、少し曖昧な感じがします。曖昧と言うよりも、訓練と訓練のかませ=合間に挟み込む訓練として行われている事が、実態としては多いように思うのです。もう少し言えば、頭の体操として、この訓練を位置づけ、訓練や日々の活動で疲れた受講生の方の頭をほぐしていくと言う要素を持たせてこの訓練を行っていると思うのです。

その証拠と言うと何なのですが、クリエイトが出している本の中で、イメージ記憶の訓練が挟み込まれていますが、どうもこの訓練の位置づけは間接的に速読に奉仕する訓練として行われている感じがします(松田真澄 知的速読法の技術 197p以降参照)。イメージ記憶や読解訓練が、実際の読書の中に取り込まれると言うよりも、読解内容を深める訓練の一環として行われている様です(同書 203p以降)。また、イメージ記憶の訓練が不思議な事に、他の速読の訓練の間に挟まれています。その点から言っても、この訓練は頭の体操として位置づけられた訓練、つまり間接的に速読に役立つ訓練として位置づけられている様な気がします。

そこで、この頭の柔軟体操とも言うべき訓練が、どのように行われているのかと言う実体を、少し見てみたいと思います。以前も2ちゃんねる上で議論となったSP速読学院の場合、抽象的な単語のイメージを思い浮かべると言う事を行っているようです。また、クリエイトはこのような訓練を文章単位でも行っている様です(同書 197p等)。

さらに、クリエイトでは単語や文章のイメージを思い浮かべると同時に、いくつかの単語を関連づけ突飛なイメージを浮かべる訓練や、本を読みながらその本の内容をイメージ化しながら読むと言う訓練を行っています。

この二つの実体を見ながら、少しその訓練の意義について考えてみたいと思います。

3 抽象的な単語をイメージ化する事について
まず、抽象的な単語をイメージ化すると言う事なのですが、頭の体操としてこの訓練を行う事に、私は別に異議はありません。なぜなら、訓練の合間にかませとして、このような訓練を挟み込むことで、受講生の方に意識的に休憩をしてもらう事ができるし、リラックスしてもらうのにも良いと思われるからです。

以前ある方よりもメールをもらったのですが、このイメージ化は、とても役立つ物だと言う物がありました。その方によれば、イメージ化は速読の訓練に必須の物だとの事です。ただ、この方が言っているイメージと教室側が言っているイメージと言うのは、少し違うのでは、と言う感触を受けました。そこで、イメージと言う事について、イメージ訓練の重要性を説く方たちの主張とセットで、考えてみたいと思います。

イメージ訓練の有効性を唱える方は、専門書を読む際に有効だと必ずと言っても良いほど主張されます。専門書によって書かれた抽象的な物を具体性を持って理解することはとても有効なのだと言う事だそうです。

私も別にその点を否定しようとは思いません。もちろん、分野によっては抽象的な概念を具体化して理解してしまうことによる不具合が生じる事があると思います(以前、マルクス主義者の方たちが繰り広げた国家論論争や技術論論争はこの良い例でしょう)。とは言え、通常この手の不具合があるとも思えませんので、まあ良いんじゃないかと言う事で、お話を進めます。

ただ、このイメージ訓練で言っているイメージ化とは、別に抽象的なテクニカルタームを具体化すると言う事ではないと思うのです。抽象的な単語を具体化するために、その内容を頭の中で画像化してみる人がいるでしょうか。例えば、国家が幻想的な共同体であると言う定義を具体化する際に、みんなが仲が本当は悪いのに、手をつないでいるふりをする様なイメージを思い浮かべる事はしないと思うのですが、違うでしょうか。

また、難しい法律用語にしても、同じ事の様な気がします。確かに、対象となる具体例を思い浮かべる事はあるかもしれませんが、別にそれは対象となる具体例を画像化するのではなく、こういう具体例があったなーと考えるにとどまるのが通常だと思うのです。

要は、ここで言われているイメージ化と言うのは、画像化と言う事であり、別に抽象性を持った物を具体化すると言う事ではないと思うのです。そのため、私はこの手の訓練は、速読に間接的に役立つ事はあるかもしれないけれど、別に必須の訓練とはではないと思っています。合間に挟む訓練としては、適切かもしれませんが、この訓練をあたかもメインの訓練であるかの様に言うのは、少し私には抵抗があるなーと思います。

とは言え、この手の訓練は、やればやるほど出来るようになり、達成感という点では、速読以上に効果があります(教育的効果と言う点では良い訓練だとも言えるのです)。頭の体操として行う分には、悪い訓練ではないし、実際はメインの訓練と言っても、むしろ頭の体操として位置づけている事が多く、まあそう考えるなら良い訓練なのかなーとも同時に思ったりしています。

ですので、結構この訓練は苦手とする人が多いのですが、別にこの訓練ができなかったとしても、気にする必要はありません。教室側が例えこの訓練ができないと速読が出来るようになりませんよ、と言っても、気にしないで、頭の体操だと思いながら、訓練に望むと良いと、私は思います。


4 イメージを関連づける訓練について

この訓練は、更に他の単語と関連づけたり、更には文章全体で行われる事もあります。良く記憶術で行われている訓練の様です。

ところで、この訓練も実は速読と間接的にしか関係ないように思います。多分、頭の体操と言う観点から行われているのだと思うのです。詳しくは、本などを見ていただければ、良いと思うのですが、この訓練は記憶力の強化の一環として行われる事が多くあります。ただ、このやり方を速読の場でも貫くと、少し変な事になります。

この訓練はやればやるほど速くなるのですが、もしこの訓練を速読の場に直接持ち込むと、読書スピードは確実と言って良いほど落ちます。また、本に対する味わいと言う点から言っても、突飛なイメージを思い浮かべるため、落ちる様に思います。ただ、記憶の強化と言う点からは、良いのかもしれませんが、速読を利用した記憶の強化と言う点から言っても、私は少し違うんじゃないかなーと思うのです。

私は個人的に思うのですが、記憶術の大家である渡辺先生ではありませんが、結局記憶の強化は、整理すると言う事でしかあり得ない様に思います。右脳記憶と呼ばれる物に頼るよりも、むしろうまい整理の仕方を覚える事の方が有効であるように思えます。速読のおいて、記憶の強化を図ろうと思えば、速読において得た知識を整理していく方が、いいんじゃないかと個人的には思います。ただ、闇雲に読むのではなく、一回一回読んで得た成果をメモなり、マインドマッピングなりと言う形で残し、その成果に基づき、また速読し、メモを残し、と言う事を繰り返し、最終的にその得た結果を整理していく方が得策なのかなーと思います。

その証拠に、記憶術の教材においてすら、記憶術で覚える教材を作っているうちに、記憶してしまうと言う要素が強くあるように思います。基礎表をつくり、そこへ当てはめるために、記憶すべき対象を整理していくプログラムが必ずと言って良いほど、記憶術の教材には含まれています。渡辺先生ではありませんが、記憶術は整理術である事の証とも思えます(記憶術の最大のメリットは、記憶術があると言う事で、大量に覚えるべき物があることを知っていても、臆せず整理する事ができる、つまりモチベーションの維持と言う物だと思います)。

そう言う記憶術の本丸である整理の部分を速読教室で行うならば、その意義は頭の体操以上の物があると思うのですが、イメージ訓練の部分のみを行うのだとすれば、やはり頭の体操と言う要素が、私は強い訓練ではと思います。

記憶術の成果を否定するつもりはありませんが、記憶術と言うのは、整理術である様な感じすらしますと、整理術の部分を抜き、それを速読の世界に無限定に導入するのはどうかなーと言う気が少し私はします。

もっとも、この訓練もまた頭の体操と言う色合いが強くでています。その事を考えれば、別に否定する事もないと思います。なぜなら、この訓練もやればやるほど、成果がでる物ですし、そのような成果が速読の向上と言う点で、有効だと思われるからです。

5 結論として
結局、二つに分けたイメージ訓練の後者の物については、速読との関連という点では、少し弱い感じがしますが、訓練としては、悪い物ではないと、私には思えます。

良く、この訓練ができないと速読ができないのですが、と言うメールを頂くのですが、そんな事はありません。この手の訓練がなぜ行われているのかと言えば、それは頭の体操と言う要素が強くでていると思われるからです。ですので、頭の体操と思って望めば、逆に成果は出やすいですので、緊張せず、できなくても気にしないで、望まれると良いのではと、私は思っています。

注 イメージで本を読む事について

教室によっては、右脳速読と言う以上、イメージで本を読むべきなのだと言う事を主張する教室があります。ただ、私は少しそれは違うんじゃないかと思うのです。もちろん、イメージで本を読まれる方と言うのを私は知っていますが、専門書などをイメージで読むことが可能なのかとすら思います。

ただ、このように言いますと、入門書ならイメージで読めるのでは、と言う反論を頂いた事がありました。ただ、私には入門書こそ逆に読むことが難しく思います。人文科学や社会科学系だけなのかもしれませんが、入門書は大体大家と呼ばれる先生が書く事が多く、更にその先生の全てがそこに詰め込まれている傾向がありますので、私には逆にイメージで読むと言う事が難しく思えます。文体が一見易しく書かれていると言う事と、内容が高度であると言う事は、全く別な物だと言う良いサンプルであるとすら、入門書は思えます。

もちろん、速読と言う形態の読書を行うことで、その方の焦り(若い学者の激しい批判に対する共感をも含んだ焦り)をも同時に感じる事が出来ると言う事を否定するつもりもありません。

とは言え、これはイメージと言うよりも、むしろ行間に当たる物であると私には思えます。そして、別にこの行間を読むと言う作業は、速読と言う事を行わなくても、できるものだと思います。この点から言っても、右脳速読=イメージで読む読書と言う事に、賛成できないなーと思ったりしています。結局、誰がなんと言おうが、私には速読は本を速く読む技術に過ぎないと思っています。

注 教育的効果

速読の修得に直結しなかったとしても、その教育的効果から導入されている訓練と言う物はあると思います。知的速読の技術を読むと、教育的効果と言う言葉がしばしば出ている様です。訓練が退屈で短調になりやすいと言う事を避ける点からも、ある程度このような事に対する配慮は必要だと思われます。

2002年05月05日公開

 

イメージで読むと言うアプローチについて

私の推測なのですが、元々写真記憶の問題をのりこえようとして、イメージで読むという発想はでてきたのではと思われます。つまり、写真記憶が意味から切断し、そのままあるがままに文字を記号として記憶使用とする物でした。この記憶法の最大の問題点は、果たして成人の方全てに妥当性があるのか、と言う点だったと思います。また、この記憶法を速読の場面に持ち込む事により、肝心な速読の修得と言う物が、困難になってしまうのでは、と言う事でしょう。

そこで、イメージで本を読もうとするアプローチを持つ教室は、ページを画像の様に思い浮かべるのでなく、シーンを思い浮かべる事により、記憶と言う面を強化し、速読法においても記憶と言う問題はクリアーできるのだという事を明らかにしようとしている傾向は否定できません。この考え方は、速読では記憶は後景化させても良いのだ(記憶の問題は、回数を重ねる事により、克服できるのだ)と言う考え方を持つ教室のいわば批判を回避するために、自らの速読法の中に記憶と言う物を再び持ち込もうとしているとも言えるのだと思います。

しかしながら、イメージという物が持つ意味の曖昧さを考えますと、やはり記憶と言う物はイメージと言う物を速読の中に持ち込むことがどれほど有効なのかと、私には思えます。この点に関しては、速読教室間における検討課題であると、私は思います。

2002年06月21日 イメージで読むと言うアプローチについてを加筆


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