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精読と速読

 

良く速読に対して行われる最大の批判として、精読に負けるからだという物があります。速読しても、八割覚えていられないだろうと言う事です。

今回頂いたメールなのですが、私に聞かれてもそう言う難しい事は、分からないのです。なんと言っても、私はお馬鹿さんですから。とは言え、頂いたメールですし、やっぱり何らかの答えを期待されてメールを書かれた方の事を考えますと、やっぱりお答えしない訳にもいかないなーと思うったりして、今回書いてみる事にしました。

何を八割覚えているのかにもよると思うのですが、確かに速読をしても八割覚えていられないと言う事は、事実だと思います。例えば、ある学術書などを読んで、その本が提示した細かい例や脚注等も含めて八割文章を復元する事は、私には不可能です。他の方がどうなのかは知りませんが、私には困難だと思います。

ただ、私の頭が悪いだけなのかもしれませんが、精読していた頃でも、その点は変わらなかったと思います。細かい注等も含めて八割と言われると、どの程度の再現率を望むかによって、六割ですら困難だと思います。これに関しては、実際の本でも同じだと思います。小説であろうが、何であろうが、八割の復元率を要求されれば、私には全くできません。単語レベルやセンテンスレベルで良ければ、可能でしょうけれど(要旨と言うならばまだ理解の範疇ですが)。


ただ、この場合八割と言った物が、何をさしているのかを明らかにしないと、何も言っていない事に等しいと思います。客観的な数値を要求しても、何を基準とした数値なのかを決めないとあまり意味がなさそうです。また、速読と精読を比較すると言った場合、その方にとっての八割と違う方にとっての八割は異なるでしょうから、八割と言った場合何に対しての八割なのかを決めないと、議論自体が成り立たないと思います。

ところで、こういってしまうと、議論が平行線のまますすみそうなので、少し視点を切り替えたいと思います。多分、この様な問題提起をされる方が想定している事は、速読を行う事自体が意味がないのでは、もう少し言うと、精読の方が優れた読書形態なのだと言う物ではないかと思います。以前、2ちゃんねる上でも議論が闘わせれていたと思うのですが、この辺は結構難しい問題の様な気がします。

問題は、精読することと速読することを対立的にとらえる必要があるのか、と言う事でしょう。教室によっては対立的にとらえる傾向もあるようですが、私には少し疑問です。

個人的には、そもそも本を速く読む必要がない、もしくは読む必要性を感じない人が、速読などする必要性はないと思います。速読をするのは、必要性があるからするのであり、必要性がなければ何もする必要性はないのです。ですから、私は速読を否定する方に、あえて積極的に速読は素晴らしいですよと言う宣伝をする必要はないと思っています。

まして、速読をしないと成功しない等というのは、残念な事に「与太話」の域を超えないと思います。成功するかどうかは、道具をうまく使いこなす能力があるか否かで決まるのであり、道具が使いこなせなければ、結局は成功などするはずもないのです。当たり前の話しです。同じソフトを使ってからと言って、必ず素晴らしい成果が出る等という事があるはずもないと言う事と同じ話しです。

速読するかしないか、と言う話しは結局その人の選択の問題であると言う気がします。あえて速読という選択を行わないのも、その方の生き方であるし、音読が素晴らしいと思う方にあえて音読を否定するのは、お節介であるばかりでなく、有害であるとすら、私には思えます。

また、声に出したい日本語と言う本を引いて、速読に対し批判的なスタンスでのぞまれる方もいると思うのですが、あの本を読む限り、別に速読と精読と呼ばれる物が対立するとは思えないのです。違うのでしょうか。そもそも、速読と精読と言う事で言えば、精読すらも音読(あの本が言っている音読というのは朗読の事だと思うのですが、違うのでしょうか)とは異なることになるはずですし。

もちろん、声に出して味わう方が楽しい本と言う物を、私は否定しようとは思いません。例えば、脚本仕立てで書かれた本は、かえって音読して読んだ方が楽しいかもしれません。ソクラテスの弁明などは速読をして読むのも楽しいかもしれませんが、劇のようにして読めば、楽しさも倍増するかもしれません。また、ゴルギアスなどは余計声に出すと、所謂アジ調で書かれていますので、演説のお勉強にはもってこいかもしれません。

更には、ケネディーの就任演説などは、音読して読んだ方が面白い物の良きサンプルかもしれません(クライマックスに向かった高揚感が、音読をすると感じられます)。この演説はテープも売っていますし、真似しながら読んでみると楽しいかもしれません。個人的にはマルコムXの演説集の方が、面白さが百倍かもしれません。

ところで、こうやって考えてみますと、私は精読するという事と速読するという事を、対立的に考える必要があるのか、と言う気がします。

問題の全ては、その人が主体的に選び取る事の様な気がします。その方の目的意識性に基づき、いかなる手段を選択するかは、その方の自由であり、その方の目的により決定されるべき物のはずなのです。手段の側に合わせ、目的を検討すると言う事自体が、思考方法論上の誤謬であるとすら私には思えます。

××と言う目的で本を読むと言う目的を達成するために、とられるべきなのは相応しい方法なのであり、その時に速読が相応しいのか音読が相応しいのか、又は朗読が相応しいのかと言う事は、その人が決める事のはずなのです。

従って、精読と速読の優劣を競うこと自体が、私には議論の出発点として違うのではないだろうかと思ったりしています。

また、原則論となるかもしれませんが、速読であろうが、精読であろうが、音読であろうが、何読であろうが、読まないより、読んだ方が良いと言う事は、事実だと思います。例え、文章を書くことが下手であろうが、なかろうが、書かない限り良い書き手になれないのと同様に、本を読まない限り、良き読み手となる事もできないでしょう。

もちろん、私が良い書き手かどうか、と言う事は、ご批判のあるところだと思います。また、私が良い読み手であるか、と言う事も同様でしょう。私は自分が良い書き手でもないし、良い読み手でもないと言う事を否定しようとは全く思いません。私が書いた物を否定的に感じられる方もいると思います。私の事を悪いサンプルだと思うなら、真似をしなければ良いだけの話しです。私と反対の事をすれば良い話しですから。その点は、以前から言っていた通りです。

いつもたどり着く事は同じだと思うのです。どの教室を選ぶのかは、自分の目的によって決まるはずです。そして、速読という手段を選ぼうと言う方は、速読という手段を選ぶべき目的があったはずなのです。この目的を達成するために必要だから、速読という手段を選び取ったはずなのです。こういった主体的な選択を、私は尊重したいと思うし、その事を否定する権利は誰にもないと思います。

速読と精読の差を論じ、自分にとってどっちが良いのだろうと論じること自体は、悪い事だとは思わないし、良い事だと思います。ただ、この両者を単に比較し、どちらかの優越性を競い合うと言う議論は、あまり生産性のある議論ではなさそうです。

と、いつも通りいい加減な答えで、すいません。こんな感じで許して頂けますか。××さん。

2002年09月07日 公開


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