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反論にこたえて

 

以前から私は述べてますように、私は全ての速読法にそれなりの理があると思っています。もし、全く何らかの合理性がない教室があれば、その教室は淘汰され、なくなっているでしょうから。この立場は、今後も一貫させて行きたいと思っているし、変えるつもりもありません。この業界のこのような不確実さこそが、私のサイトを支えてきた物だし、それ以上の物でもなければ、それ以下の物でもありません。

ところで、複数行読みの件に関しては、いろいろとご批判を頂いている様ですが、個人的にはあまり複数行読みの是非を考えても意味がない事だと思っています。その一番の理由は、ここのサイトの意義にあります。私の考えている事でも述べましたように、私の関心は、今そこに存在する教室に通われている方たちとどう接するかと言う事に限られています。度々述べますように、多数派を占める教室の理論に反さないと言う事が、私にとって一番大切な事なのです。

ですから、はっきり言って、複数行読みを否定されようが、どうしようが、どうでも良いという事も言えるのです、それもあんまり言ってもしょうがない事の様な気がします。

ところで、私が複数行読みと言う行為を否定しないのには、もう一つの理由があります。それは、複数行読みに対し批判的な論者の言う多くの疑問は、複数行読みを根本から突き崩す程の物とは未だなり得ていないと言う事です。あまり有効とは言えない反論を聞いても、ふーんと思う事はあっても、私はそれ以上の感想は湧きません。そこで、今回は複数行読みの批判を少し検討してみたいと思います。

複数行読みに対して批判的な論者は、複数行読みの教室が多くの受講生を脱落させているのではないか、と言う批判を行います。しかし、このご意見は一見すると正しいかの様に思えますが、果たして本当の事なのでしょうか。このご批判は、何人中何人の受講生が脱落した(無作為に抽出し)のか、そして脱落した受講生としていない受講生の差(読書歴などに差があるのか)等を分析された上で、述べられているものなのでしょうか。

この点を教室の経営者が言うのは、私には理解できます。なぜなら、多かれ少なかれ、教室の経営者は自分の速読法をベストの物だと思っているからです。また、ベスト(少なくとも、他の速読法よりベターな物)と思っていないならば、私は教室の運営などに乗り出すべきではないとも思います。しかし、教室にも通った事がない方が、その批判に組みするとなると、私には少し違和感を覚えます。なぜなら、その方たちの情報の多くは、伝聞情報と呼ばれる二次情報に依拠した物であり、何らの証明も行われていませんよ(ためにする批判の域を出ていないと思います)、と思われるからです。やってみた事もないのに、なぜ分かるの?と言う気がします。

ただ、教室に通われた方でうまくいかなかった方の場合、問題は深刻です。私はいい加減な教室運営をすると言う事は、決して良い事の様に思えませんから。万が一、その受講生の方に問題があったとするならば、受講を最初の時点で断るべきだったし、逆に受講生の方に問題がなかったとするならば、方法論上の問題はさておくとして、謝罪や返金を行う等のサービスがあって当然だと思うからです。ただ、これにしても、受講生の方と速読教室側の問題であり、主に速読法の方法論に関わる事と「即」直結するとは私には思えません(関連はあるでしょうが、それは外部者にはなかなか分からない事でしょうから。推測はかなりつきますが)。結局の所、方法論上の問題を全否定すると言う事は、難しいと思います。

次に、与えられるご批判として、複数行読みでは理解できないと言う物があります。このご批判としては、二つの内容が主に批判の内容として含まれています。もっとも、この二つの批判は二つでワンセットなのですが(一つの問題が、そのもう一つの問題の前提となっています)。

第1の批判は、複数行読みと言うのは、行の半分を見て、スライドさせるものであり、半分みただけで理解などできるはずがないと言う物です。しかし、行の半分を見て理解すると言う方法を取られている教室は、むしろ少数派であると思います。多くの教室は、行の三分の二を見て、下へとおろすとされていると思います(川村 速読トレーニング参照 同書において、「識幅」の拡大が主張されるのは、見て分かる場所がある程度確保されなければ、複数行読みに移行できないためです)。少なくとも、多くの教室は半分見ただけで理解しろ、等とは言っていないと思うのですが。この問題は事実誤認と言う事で解決する話だと思います。

むしろ問題となるのは、この批判の前提となっているものです。その前提とは、知識と言う物が、文字列通り、時間・論理順を守って入力しない限り、理解できないと言う物なのでしょう。要は、論理的関係は、順を追わなければ理解できないと言う発想があるのだと思います。この点が第2の点であり、この点は第1の点とワンセット(根拠)になっていると思います。

この第2の点については、簡単な答があります。それは、論理順でなくても理解できるんですよ、と言う答えを対置する事です。そして、その根拠を長々と述べる事です。しかし、これでは多分批判されている方も納得されないでしょう。なぜなら、この回答はご批判をされている方に対して、何ら答えになっていないからです。この方たちの問題意識と極めてそれた形で述べられた反論は、何ら意義がないと思われるからです。

この批判の問題意識とは、三分の二であろうが、二分の一であろうが、論理順に文字を入力しない限り、理解できるはずがない(少なくとも一般人には)と言う物があります。その点こそが、問題の本質であり、この問題を複雑にしている理由もそこにあると思います。

まず簡単な反論としては、新聞などの行数が短い物なら、複数行読みできませんか、と言う物があります。ただ、大体このように答えますと、なぜか複数行読みに批判的な方は、あれは行数が短いからできるんだと答えます。しかし、残念ながらこの再批判は有効な批判となっていないのです。なぜなら、複数行読みに批判的な方は、複数行読みができない(または、できたとしてもそれは通常人にはできない物だ)と言う前提から話を進めています。にもかかわらず、なぜか行が短いと一般人であろうが、なかろうが、簡単に認められる例外があると言うのはあまりに不自然は話だからです。この再批判が示している事は、自分のたてた複数行ができないと言う命題には、例外がありますよ、つまり何ら絶対的な物ではないと言う事しか意味していません。

とはいうものの、ここで反論をやめてしまうと言うのは、あまりに政治的な感じがします。そこで、もう少し話を煮詰めてみたいと思うのです。まず、私は複数行読みができるんですよと言う前提から進めていますが、その限界と言う物は肯定しています。それは、複数行読みはどうしても充実感=読んだ後に分かったと言う爽快感が落ちる傾向にあります。この点は、斉藤先生がご自身の著書の中でスキミングを中心とされる速読法もまた同傾向にあることを認めてられます。

要は、どうしても時間順に入力されていないため、意識において、分かったと言う実感がかけると言う事だとフォトリーディング調で言えばなるのでしょう。つまり、アクティベーションが大切だと言う話になるのだと思います(尚、複数行読みにおいて、理解はいかになされているのか、と言う点は論者によってその傾向が様々です。ある人は、入力後しばらくしてから、理解が進むと言うし、私の様に入力と理解が「ほぼタイムラグなし」に進むと考えている傾向がある教室もあります。これは、主張する人たちがよってたつ速読法のイメージの差であり、私もまた事後にさらなる理解が向上すると言う事を否定するつもりはありません。もし、否定しているならば、読み方を変える事で、さらなる理解を上げようと言う話にはならないでしょうから注)。

ただ、果たして、これは複数行読みに固有した問題なのでしょうか。私にはそうは思えません。私自身は、複数行読みも複数行読みを否定する速読法の両方とも修得していますが、一回の読書で全てを理解する事はできないし、やっぱり習いはじめの頃は、充実感はどちらの速読法にもかけていました。特に複数行読みの場合、話の大筋は理解できても、時として肝心な部分を落としていたりする事はあるため、余計だとも言えるのですが。複数行読みであろうが、なかろうが、高速で何かを処理する以上、充実感については、固有の問題であり、複数行読みの方が、その現れが激しいと言う事の様な気がします。

実はこのように言いますと、次の様なご批判を頂く事があります。それは、速読法=一度で全てを理解する物ではないのかと言う物や、複数行読みで得られた情報は、単語レベルの物でしかなく、その記憶の断片が記憶の奥底に残っているので、実は読めていないのではないかと言う事です。この考え方に対しては、川村博士を代表とされる複数行読みの論者は、前者に関しては、回数を重ねて読むことで理解を深めるんだと再反論を行います(詳しくは、速読法殺人事件参照)。後者に関しては、更に記憶の奥底に残っていて、それが次に読んだときに役立つならば、それはそれでいいじゃないかと言う再反論も可能です(更には、自分たちの理論を対置する事も可能でしょう)。この点から言っても、複数行読みを根本から崩す様な批判は、少なくともないように思われます。

私からしますと、回数を重ねて読むと言う事は、何ら恥じる事でもないし、むしろ当然の事だと思います。なぜなら、回数を増やしても、理解がのびない様な読み方をしているとするならば、その人の本の読み方と言う物自体がおかしいのか、それとも全く本を理解されていないかのどちらかだからです。毛沢東の矛盾論:実践論ではありませんが、人間の認識は、経験や実践によって、深まる物です。回数を重ねて読んでいく事で、経験や知識と結びつき、より対象とされた本に対する理解が深まるのは、一回よりも、二回目の方が、そして二回目より、三回目の方が、深まるのは当たり前とも思えるのですが。むしろ、一回で全てを理解する速読法の方が、私からすれば不信感を抱いてしまう物であり、二度、三度、そして四度、と読んでもいいではないか、という気すらします。

そして、記憶の奥底であろうが、何であろうが、その奥底にある物を引っぱり出していく技術があるならば、それはそれで結構だとすら思います。むしろこの技術を明確にしなかったと言う事を、この間複数行読みを前提とした教室が行った事を批判すべきとも思われます(斉藤博士が登場するまで、そんな事はあまり真剣に考えられて来なかったのです)。

例えば、ある教室は、速読だからと言う理由で、のっぺり平等に読んでいく事を勧めます。また、ある教室は回数を重ねれば良いんだと言う事を言います(後者に関しては、知られざる受験勉強法 参照)。果たして、この方法が記憶の奥底から知識を引っぱり出す方法(つまり、見る→入力→組立と言う構図を合理的な物)として有効なのだろうか、と言う点のご批判は有効だと思います。なぜなら、その人の目的によって、読み方と言う物が変わる事は当然であるし、本の構造を無視し、同じスピードで読むと言う事が、果たして正しいことなのか、疑問だからです(このような読み方では、頭の中で、バラバラに入力された知識を結合させると言う作業がうまく行くのかと言う事が問われるからです)。

だからこそ、タントさんの掲示板の方にも書きましたが、基本的に本を読む際に、私は全体の流れを押さえ、次にその次に大きな流れ、そして、次に大きな流れと押さえていくべきだと考えています。そして、この細かい流れと大きな流れを確認するときは当然ながら、読むスピードも変わるはずなのです。なぜなら、森を眺めようとしているのに、ゆったりと読んでいたら、いつまでたっても森の中にいるでしょうから。そして、木々を見る時に、さーっと流して読んでいたら、木を見ることはできないでしょう。更に言えば、木の枝を見たいと思っている時に、森を見るスピードで見ていれば、いつまでたっても、木を見ることはできないと思うのです(車にのっている時に見える風景、自転車にのっている時に見える風景、更には歩く時に見える風景が違うのと同じ事だと思います。つまり、大きな地図を持って歩く事で、ジョイントさせるなり、なんなりを促進いたしましょうと言うお話に過ぎません)。

もう少し言えば、主体的な読書法とは、自らの問題意識の基づいて読む事であると思います。自らの問題意識のない所に、いかなる主体性もないような気がするのです。複数行読みは受動的な読書態度であるとのご批判がありますが、一体何をもって受動的と言う事を述べられているのか、私には疑問です。主体的とは、自らの問題意識に基づき本を読む事であり、決して作者に従属することではないのです。そして、作者の思考を追体験するには、場所的に作者との対話が要求されると言う事もまた、何も作者の意見に従属することではありません。自らの問題意識を持って本を読まない限り、作者の思考を読むことなど、できるはずもないのです。

例えば、自分は●●主義が嫌いだと言う方が●●主義の本を読んでも何ら生産性は上がらないでしょう。しかし、●●主義の批判を行おうと言う問題意識の下、読んだからと言って、作者との対話が行えない訳ではないのです。なぜなら、作者の意見をそして思考プロセスを理解すること抜きに、批判など不可能だからです。本を主体的に読むと言う事は、何も作者の意見に従属すると言う事ではなく、自らの問題として作者が提起した問題を、作者の頭を使いながら場所的に再現し、その点をめぐり批判する事にあるはずなのですが、違うのでしょうか。そして、全体像を見ることなくして、結局は理解ができないはずなのですが。

更に言えば、作者の論理展開も理解できず、知識のみを吸収すると言う事が果たして可能なのでしょうか。作者の問題意識と切断された知識の吸収が本当に意味のある物なのか、と言う事すら、私には疑問に思えます(中学生くらいなら、それでも結構でしょうが)。作者の作り出したストーリーにのりながら、知識も並べられているのであり、これと切断された知識の吸収という事が、可能なのかとすら、私には思えます(もちろん、知識を吸収する事をメインにおくか、否かと言う事は、読み方に変更を及ぼす可能性があるのは、当然の事です)。

そして、このような問題意識の下、本を読むとするならば、むしろ複数行で本を読むか否かと言う問題は後景化されるように思われます。なぜなら、それは自らの問題意識が決定することであり、場面場面によって異なってくるはずだからです。全体の流れを確認することを通じ、作者の思考パターンを読む場合と、作者が個別の章や節そしてパラグラフに込めた全体を体現する個をいかに読む砕くのか、この事に焦点が絞られるべきかと思われます。そして、このことを読み砕くには、全体像を掌握し、徐々に眼を細かい所に持っていくと言う読み方の方が、ベターな選択であると、私には思えるし、それは複数行読みを前提にしても可能であると思います(なぜなら、細かい理解が必要な所ほど、行数を減らせば良いだけだからです)。

更に言えば、この作業をなぜ複数行読みを行うと、行えないのか、この点は不明です。もちろん、こういう読み方は能動的ではなく、受動的な物だという意見ならば、私も理解できますし、ふーん、そうなんだという思います。結局は、この辺は趣味の問題でしょうから(文字通り、生き方の問題でしょう。だから、私がとやかく言う事ではないと思います)。

私からしますと、複数行読みにおいて問題とされるべきは、先ほども述べましたように、現実への適用場面における問題の様に思えます。もちろん、若桜木氏のように、優秀な方ならば、どんどんとスピードをつけて読み、情報入力を継続することで、頭の中で全てがジョイントされるのかもしれません。しかし、これを全ての人に当てはめると言う事が妥当なのか、私には疑問ですし、これがネックとなる可能性があると常識的も判断できそうです。そこで、複数行読みが完全に習得されていない段階で、複数行読みを提唱する教室はいかに現実に速読法を適用するのか、と言うアプローチが確立されていないではないか、と言うご批判は、かなり有効な批判だと私には思われます。

では、このような反論が可能であるにも関わらず、なぜ複数行読みは批判されるのでしょうか。それも、複数行読みを前提とする教室にとっては、あまり痛くない批判がです。これは、複数行読みを批判する論者たちの多くが、論理順に情報を入力しなければ、通常の人には理解できないと言う事にあるような常識に基づいているためだと思われます。しかし、実はこの論者たちの前提が有効な批判を妨げているとも言えるのです。なぜなら、ここで「通常の人」と言うのは、いかなる基準で分けられた通常の人なのか、明確にされていないからです。通常の人の基準は何なのでしょうか。ここで「通常」と言うのは、複数行読みがマスターできなかった人と言う事になると思うのですが、しかし何らここでは、通常の人=複数行読みができない人となるのか、が積極的に示されていません(論理順に入力しなければ、入力できないと言う事は、単に自分の意見を対置しているに過ぎず、残念ながら有効な批判となり得ません)。

そして、複数行読みを批判する方のここでの論理的な弱さは、通常人には複数行読みができない、私は通常人、だから複数行読みはできない、と言う三段論法によって組み立てられた論理でしかないためだと思われます。つまり、大前提自体が間違っているのではないかと言う証明が未だ弱いからの様な気がします。

本来、この考察を行うためには、伝聞情報と言われる二次情報ではなく、できる限り多くの人から、速読ができなかった原因を探る事が必要となると思われます。しかし、このような追検証もなく、この前提を元にお話を進められるのは、速読教室側としては「また言っているよ」としか思わないだろうし、私はあまり生産性のある議論にはならないと思います。

このように言いますと、複数行読みの批判は、全く有効な物ではないと思われるのですが、実はそうでもないのです。なぜなら、私自身複数行読みと言う物に限界を感じています。その限界は、何なのかと言う事なのですが、一つは複数行読みを批判される方が言っている充実感と言う問題にあるように思います。この点は、読み方の工夫と言う事で、限定的ではあるけれども、まあクリアーできると思うのです。最近、この読み方の工夫と言う事を、やたらタントさんのところで言っているのはそのせいですし、メモの取り方等という事をあさり始めているのも、完成に向けてダッシュし始めているからでもあるのです。

しかし、もう一つの疑問は、そう言う所にあるのではありません。それは、複数行読みが積極的にできると言う証明をいかに行っていくか、と言う事です。読み方を変えると言う事で、限定的に複数行読みを評価する事は可能です。すなわち、例え単語しか拾えていなくても、回数や読み方を工夫することで、理解が深まるならいいじゃないか、と言う反論や人間の思考パターンは無限だと言う批判を対置する事で、反論は可能なのですが、これではあまりに受動的すぎると思います。複数行読みを肯定するには、後者は前提が自らがよって立つ理論に過ぎず、あまり有効的な物とは言えないし、前者に至っては居直りに過ぎないと言う事も言えます。

とは言え、現実的に考えると、この問題は、メリット、デメリットにつきる様な気がします。つまり、速読法を選ばれる時にどうするのか、と言う問題に過ぎません。結局の所、いろいろな速読教室が誕生してしまった理由に帰結するのです。スピードを犠牲にするとか、理解度を犠牲にするとか、修得時間がかかると言う意味での犠牲とか、と言う中で、自らの選択する目的に従った方法論の選択と言う事に還元されていくと思われます。

このようなある意味不確実な状況の中で、私は先述しましたように、複数行読みには、速読が理想とする情報入力を最大限にまで向上すると言う眼の動きを実現しやすと言うメリットがありますよ、と言っているに過ぎません。そして、この複数行読みの持つメリットを最大限に生かしながら、スピードを落とさず、理解と言う事を深めていくのかと言う問題は、現実場面への適用方法を考えていく事に処理されていくと思います。

また、このメリットを最大限に生かしながら、ネット上で、いかなる情報提供が行えるのか、と言う事が私の興味です。もう少し言えば、ネット上と言う限定がある以上、視点移動の確立を困難とする速読法を選択する事は、私にはできないのです。いくら、それが優れた方法論であっても、実現不可能な情報を提供するというのでは、あまりにデタラメが過ぎると言う物です。教室運営にでも、乗り出すならば、私も話を変えますが(運営する気もないので、やりませんが)。それに、私が教室運営をするならば、複数行読みを前提としない物にすると思います。

とは言う物の、人間の行動は常に現実によって決定される物です。自分が正しいと思う事を、正しいのだからと言う理由で言うような事は、私にはできません。それは、不確実さと言う理由からも言えるのですが、どの方法も一定の理がある以上、全否定する等というおこがましい事は、私にはできないからです。以前も書きましたが、私は速読教室の先生方を尊敬していますから。

このこの立場は、私がサイトを開設して以来、一環したものとなっています。いかに、多くの速読法に内在しながらも、その速読法をこえていくのか、と言う事につきます。だからこそ、読み方の工夫や適切な視点移動の早期確立と言う事にこだわっているとも言えるのです。

このような私の立場からしますと、あまり複数行読みの宣伝ばかりするつもりにもならないし、複数行読みを批判したいと言う気持ちもおきません。むしろ、今教室に通われ、少し伸び悩んでいる方や、速読教室に行ったけれど、あまり成果が上がらなかったと言う方や、さらには成果は上がったけれど、普通の本を読むと、あんまり理解度が上がらないと言う方に対し、いかなる情報提供ができるのか、と言うことこそが、私のネット上の存在意義であり、私の立場だからです。既存の方法にのっとりながらも、その方法を崩す事なく、順応していく方法は、やっぱり最後は読み方の工夫と言う事といかに記憶の整序を行うのかと言う事につきると、私には思えます。

と言う事で、長くなりましたが、この辺で私なりの答えと言う事にさせて頂きたいと思います。2ちゃんねるの皆様には、2ちゃんねるの方で反論しろと言うご意見もあるようなのですが、せっかく収まった所だし、私としてはがらみさんを否定するつもりはありません。むしろ、彼が断言するのは当たり前の事なのです。彼は、教室の経営者であり、自らの方法を正しいと思われている方なのですから。前述したように、自分と路線の異なる速読法を否定できないくらいなら、教室など運営してはいけないのです。私は彼が今までの立場を否定し、私の立場を肯定する位なら、彼は逆に教室を運営する資格などないと思います。

まして、がらみさんやこの間の2ちゃんねるの方々のご活躍により、着実にスレッドは成長していると、私には思えます。そこにあえてあまり実益があるとも思えない論争を起こすと言う事は、私の考え方にも反します。まことに失礼とは思いますが、この場にてお詫びすることで、お許し頂きたいと思います(もっとも、書き込めないと言う問題もあるのですが。どうもエクスプロラーの調子が異常で、カーソルが高速移動するのです。速読の練習には良いのですが、言う事をなかなかきかないので、再インストールかと言う話なのかもしれません。もし、復帰法をご存じの方がいらっしゃいましたら、教えて下さい)。いつも以上に、分かりにくい文章で非常に申し訳ないと思うのですが、今回はこれくらいで、終わらせて頂きたいと思う次第です。

と言うことで、今回の複数行読み騒動は、基本的にこの程度と言うことで、終わらせて頂きたいと思います。どちらが、意義があるかと言う事を論ずるよりも、やっぱり皆さんが各自の教室の方法の中で、いかに自分色の速読法を確立していくのか、と言う事の方が、私には意義があることの様に思えます。速読教室は、所詮手段を提供する場に過ぎず、真理を明らかにする場ではないのですから。

 

2002年03月10日 更新



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