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複数行読みについて

 

複数行読みをする事の是非はともかくとして、複数行読みをしている教室が存在する事は事実です。そして、この複数行読みをすると言う行為に対しての評価が、いろいろ存在することは事実なのですが、なんで複数行読みをするのかという理由が、語られる事は非常に少ないと思います。

もちろん、2ちゃんねる等ではこの複数行読みの是非や目的に関する事の議論が組まれています。がらみさんと言うハンドルネームの方や参加者の並々ならぬ努力から、素晴らしいスレッドとして成長しているようです。そこにおいても、様々な観点からいわゆる右脳速読の是非や目的が論じられている様なので、本来ならば私が今更言うべき事でもないような気もします。

とは言う物、この点に関するメールが多いので、あえて自分の意見を書いておこうと思います。ここで、書いた事のほとんどは、私の考えに過ぎません。ある教室からすれば、鋭角的に対立するかもしれないし、私の常識の不足から来る物かもしれません。ただ、ここで書いた事は、私の目から見たら、こうなりますよ、と言う事ですので、その点をご容赦頂けると幸いです。

ところで、複数行読みなのですが、時としてこの読み方は、右脳速読と呼ばれたりする事もあります。テクニカルな意味で、右脳速読と言う呼び方が正しいのかどうかは、私には分かりません。また、なぞって読むから左脳速読と言う事も同様です。そして、この点をテクニカルな意味で追求する事に、あまり私は意味が感じませんし、興味もありません。複数行読みと言うと、少し変な感じがするので、そう呼んでいるだけかもしれないし、それ以上の意味があるのかもしれません。

ところで、なぜ複数行を読むとか、幅で読む、または面で読むと言う事を行うのかと言えば、それには二つの理由があると思います。一つは、いわゆる速読の目の動きを確立するためという事です。つまり、きれいな波を描いた視点移動を確立するために、ブロックで動かしていくと言う行為を行うのです。視野が広い=ブロックの幅が大きいほど、視点の移動は美しい物となります。いかに、きれいな視点移動を行うためというのが、ブロック読みの目的であり、それ以上の意味も実はないと、私は思います。

このような目的からすれば、視野を意味もなく広げると言う練習は、あまりこの目的にそぐわない事になるような気がします。もちろん、視野が広ければ広いにこした事はないのでしょうが、あまりに意味もなく視野を広げると言う事は、この目的に合致しているとは言えないと思います。視野の拡大はあくまでもなだらかな目の動きを確保するためと言う目的に限定されるべきだと私は思います。

ちなみに、このことに関して言えば、視点の移動にしても同様です。複数行読みを行うと言う立場からすれば、視点の移動は、一定の視野の広さに支えられた緩やかな視点移動であり、意味もなく目を動かすことでもなければ、意味もなく速く動かす事ではないのです。

もちろん、意味もなく目をあちらこちらに動かすと言う行為が、速読の目の動きを行うための準備運動と言うならば、必要性が肯定されるべきでしょう。とはいうものの、複数行読みの目的から考えれば、目の運動の方もその目的に基づいて制限されるべきであろうと、私は思います(これは、複数行読みをしない速読教室においても、同様です)。

もう少しつっこんだ言い方をすれば、一定の視野を保ち、その視野を利用しながら、目を動かすことに意味があるのであり、両者は別個の物ではなく、統一した物でなければならいと、と私は考えています。つまり、視野の拡大と目の動かし方は二つでワンセットであるのです。もちろん、この考え方は、いくつかの教室の考え方と鋭利的に対立する考え方かもしれません。とは言うものの、複数行読みをなぜ行うのか、と言う目的からすれば、その手段に過ぎない視野の拡大や目の運動は、この目的によって決定されるべきであると私は思います。

ところで、実はもう一つ、複数行で本を読むと言う事には目的があると思います。これは、私の推測の域を出ませんが、通常の本の読み方(なぞるような視点移動)から速読へと移行していく教室よりも、「目の動かし方だけ」で考えれば、実に切り替えが簡単なのです。

それは、複数行読みと言う行為を普段からしている事が、私たち自身が多いと言う事もあります。2ちぇんねるで発言されいた方がいますが、新聞など一行が短い物や慣れ親しんだ本ならば、複数行読みと言う事は、決して難しい物ではありません。

しかし、それ以上に佐々木博士に代表される立派な先生方の様に方法論が確立されているならばともかく、素人がさあ速読の目にしようと思うことは、通常の読み方から目の運動と視野の拡大のみで移行するのは、非常に難しいのです(でなければ、佐々木先生の教室のプログラムの大半が目の動きの確立に、大半の時間やコースがさかれているはずもないでしょう)。

要は、視点の移動と言う観点からだけ言うならば、複数行読みを基本とすれば、それは実に簡単な事なのです。目の幅と移動法のみにより、波の様な動かし方を確立すると言う事は実に単純だし、イメージをすると言う事も決して難しい事ではありません。イメージしやすいと言う事は、ゴールを理解しているのであり、ゴールを理解していれば少なくとも、反対の方向に走り出す心配もありません。

じゃあ、複数行読みには弱点がないのか、そしてもっとも素晴らしい方法なのかと言うと、実は問題がないことはないのです。以前も書いたと思うのですが、複数行読みの最大のウイークポイントはどう分散されて入力した物を統合していくのかと言う事です。複数行読みをすれば、下の数文字列の部分が読めていないと言う事になります。そして、この数文字の部分へと視点を移動する事になります。

更には、複数行読みを前提とすれば、その情報摂取は時間順や論理順に入力される訳ではありません。そのため、どうやってバラバラで入力された知識を統合するのかと言う問題が起こります。そのため、複数行読みから離脱し、一行の文字列のみ幅で動かすと言う教室もあるようです(しかし、この方法を取ったとしても、結局の所、この問題を克服したとは言えないのです。情報の時間的・論理順による入力が行われてないと言う事実は動かないためです)。

そこで、ある教室は経験や知識などとジョイントすると表現したり、またある教室は分散入力と言う言葉で説明しようとします。以前もホームページ上で書いた様に、論理力や推理力により、どうしても通常の読書以上の負荷が、そこにかかっていってしまうと言う事があるように思います。この点は以前も指摘した通りだと思います。

もちろん、これを読書とはそう言う物なんだと言って居直ってしまう事は可能だと思います。しかしながら、2ちゃんねる等で述べられている様な意見を見ると、そうは言えない様な状況もあるように、私には思えます。問題は、どうこのブラックボックスを明らかにしていくのか、と言う事にあるのだと思うのです。

とは言え、このような弱点を持つとしても、複数行読みは視点移動と言う事に関しては、達成が容易だと言う最大の利点を有しています。この利点を生かしながら、どう複数行読みの教室に通われた方が、理解度をのばして行くべきなのか、これが今後のポイントとなるように、私には思えます。

2002年02月28日公開

 

追記 この複数行読みについては、一番悪名が高い物だったと思います。もちろん、悪名が高いと言う事は、面白かったと言う方も多かったと言うことなのですが。

ところで、一万文字以上読めるためには、複数行読みを行う事が必須の条件なのかと言いますと、全然そんな事はありません。事実複数行読みを前提としない教室においても、十万文字で読む人もいます。川村博士が書かれた本を読むと、複数行読みを行う事が五千文字以上読むためには必須であるとの印象を受ける記述がありますが、私はあくまでもこの記述は川村博士が考える「複数行読みを前提としない読み方」からは、五千文字以上を読むことが困難であると言う表現の方が正確であると、思います。

詳しくは、ここここに加筆を行った物がありますので、読んでいただけるとより分かりやすいのではと思います。佐々木博士の見解を私なりに解釈しますと、複数行読みは元々速読の理想とする視点移動を簡単に実現しようとした方法に思えます(この点を隠して書いた事が、元々誤解が生み出される要因を私が作り出してしまったと思います。そして、この点を肯定するかどうかが、速読の起源をパク式と考えるのか、それともキム式と考えるのかの分水嶺にあたる事でもあると思います)。

まあ、あれから何ヶ月か経ちましたし、良いんじゃないかという事で、今回少し付け加えてみました。速読の起源にも関わることなので、私としては慎重にならざるを得ませんでした。速読の起源については、2ちゃんねる上でも一時取り上げられた事がありましたので、詳しくはそちらの方を参考にしていただけると幸いです。

2002年06月21日 追記部分を追加


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