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音読を越える事は良いことなの




実はこの点については、以前もメールで頂いた事があります。これを否定してしまうと、速読は成り立たない事になるのですが、あえてお答えしたいと思います。

まず、音読を越えると言う事は、前回も書いたのですが、人の読書習慣を変えると言う事です。特に、速読を究極の読書方法と考える速読教室にとっては、レゾンデートルに当たる部分であり、お答えしにくい部分かと思います。私自身、速読で本を読んでいくと言う習慣がありますので、本当はお答えしたくない部分でもあるのです。

ただ、音読を越えると言う作業は、読書の習慣を変えると言う事ですから、音読をしないと本が理解できない(音声化しないと理解できないと言う意味です)方にとっては、私はデメリットがあるような気がしています。特に、音声化すれば、理解し、記憶できると言う方が、世の中にはいるのですが、そう言う方にとっては、あえて音読を越えると言う作業がどれほど意味があるのか、と私は思ったりしています。

だって、速読をして、全部理解できて、記憶もできれば、私はその人に音読を越えて、速読こそが一番だと言う事ができるけど、現実はそれほど甘くありません。以前から述べていますように、私が使っている理解と言う基準は、極めて主観的な物に過ぎません。ですから、無理に音読をやめて、速読をしろと言う気持ちにはなれないところがあります。

私が速聴という物を一定制限付きながら、高く評価しているのは、このような方に有用なのではないかと思っているからです。つまり、音読をすることで、大半の内容を記憶できると言う方の場合、音読そのもののスピードを上げる事で、速読とまでは言えないけれど、一定の成果を上げる事が可能だと思うからです。

そう言う方が、今と2から3倍の音読のスピードを手にすれば、その方は、速読を行っている人たちと少なくとも同等の情報処理能力を手に入れる様な気がします。なぜなら、試してみると分かると思うのですが、がんばると以外と人間は速いスピードで話す事ができる物なのです(頑張れば、3千文字くらいならばなんとかなりそうです)。1分間に3千文字も読めれば、速読とは言わないかもしれないけれど、結構いけているスピードのような気がするのです。

私も教室にいたころ、そう言う受講生の方にあった事がありました。インストラクターとしての立場からは、その方のスピードを上げる事が、私の使命の様な気もするのだけれど、あえてその方の習慣をやめてもらって、今ある読書習慣を変えてしまうリスクを考えると、かなり不安だったりした事を覚えています(結局、変えてもらわずに、うまくいったのですが)。

また、私が斉藤先生の方法論を評価している事も同様なのです。私が斉藤先生の方法論を高く評価しますと以前ホームページで書いたとき、「意外だ」と言うメールを頂きました。確かに、私の提唱している方法論からすると、斉藤先生の方法論は時として矛盾し、対立する事もあると思います。とは言え、私が着目すべきだと思うことは、彼の方法論が持つ幅の広さにあると思うのです。

つまり、斉藤先生の方法論の特徴とは、その幅の広さにあるように思います。入り口がたくさんある所にあるように思うのです。このことを端的に示す点が、彼がキム式速読法に対する批判だと思います。斉藤先生がもっとも強くキム式を批判する点は、無原則的な右脳速読の濫用にあります。多分、これは私自身思うことなのですが、速読教室の多くが、速読法のすばらしさのためか、目的意識性を持ち読書をする事を時として否定しがちなのです。もちろん、頭から目的意識性を持つ読書を否定すると言う教室はありません。しかし、目的に基づきいかなる読む方を選択していくのか、と言った場合、速読以外の本の読み方が、読み方の中から除外されている事が多いのです。

もし、目的にふさわしい読書の仕方を選択すると言う事が正しいとするならば、いろいろな読み方が許容されるべきであり、何も速読という事にこだわらなくても良いとも同時に言えるような気がします。斉藤先生が提唱される速読法の特徴は、読む対象に合わせ読書の仕方を変えていくと言うある意味当たり前とも思える事を提唱している所にあり、この事を提唱した点が斉藤先生の最大の功績に様な気すら私はします(もちろん、これは私からしたら、こういう意義があるという事で、他の方からすればもっと斉藤先生の方法論には良いところがあると思うのは当たり前の事です)。

斉藤先生が示された問題意識は、特に先ほど述べたような音読をする事で、暗記までできてしまうと言う方にはぴったりの方法論の様な気がします。つまり、速聴などの手段も利用する事で、音読のスピードを上げながら、斉藤先生等の本を参考にしながら、メリハリをつけた本の読み方を学んでいけば、先ほど述べたような方の場合、うまくいくのではないか、と思うのです。

もちろん、このような結論は、多くの速読教室が出している結論には、当然相反する物があります。なぜなら、速読とは見る事により成し遂げる読書形態であり、この方法こそが、多かれ少なかれどの教室でも最高の読書形態と考えているからです。しかし、私の様にしがない読書マニアにしか過ぎない者にとりましては、人様に素晴らしい方法だからやれと言うのは、少し抵抗があります。また、無理に変えなくても良い事と言うのは、世の中にはあるような気がしているのです。

ですから、2から3倍程度でも速くなりたいと思う方は、読み方を調節する事(立花隆氏ではありませんが)やSRR等を使用したりしながら、音読を維持していても、別に悪いとは思いません。また、先ほど書いたような方の場合、無理に音読を越えてしまうより、越えずに維持していく方が良いというケースもあるだろうというのが、私の今回の結論だと思います。


追記 私は、速読=万能と言う考え方に、あえて反対もしようとは思わないし、また賛成しようとも思いません。これは、個人が決定する事だと思います。だからこそ、この結論が導かれるのかなーと個人的には思っています。



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