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速聴の意義


今回は、前回に引き続き速聴を利用した速読法の修得について述べたいと思います。ここ数年、SSIさんがプログラムの公開に熱心なようですし、斉藤先生アルカディアシステムズさんが安価なプログラムを提供されています。そのため、独習者の方を始め、そう言ったものを利用されて、1日も早く目標を達成される事を祈っております。

ところで、前回の復習という事ですが、私は速読の修得に「速聴」に代表される速くものを聞くという作業は極めて有益である、と宣言しています。この意見を変えるつもりもありませんし、また批判をいくら受けても構いません。その批判の多くは、多分速聴に代表されるプログラムは所詮音読を速くするに過ぎずあまり意味がない、とのものでしょう。

ところで、この批判の多くは当てはまらないと、私は思っています。なぜならば、音読が速い人の方が、多くの場合速読法の修得は極めて速い傾向にあることは、私の経験から言っても事実だと思います。さらに言いますと、以前も書きました様に、読書の経験が多い人ほど、速読法の修得はたやすいという傾向にあるのです(この点につき、詳しくは寺田さんのホームページ)。

としますと、音読が速いほど速読が修得しやすいと、一般論から言っても、言えると思います。 また、一分間に二〜三千字読めるという程度では、速読というより、むしろ音読をしていると言う状態に近いと思います。目の運動や音読を止めさせるという練習のみでも達成できるハードルでもありますし、あえて速聴なんかしなくてもいい、とも言えるのですが、以外とこれが達成できない方が多いのです。私の様なアバウトな人間(なんて時代遅れな表現だろう)ならば、問題もないのですが、世の中私のようないい加減な人間ばかりだと、大変な事になってしまいます。

そう言った方にこそ、「速聴」に代表されるプログラムがおすすめです。普段から速い音を聞くことで、いい加減に聞く、更に言いますと二つの作業を同時並行して行う癖をつける(本を見ながら、音をそれも速い音を聞くという作業)事が求められています。つまり、音読の段階から速読の段階へと移行しない多くの理由が、本の字面を追いたいと言う強い欲求がある方たちが多いのです。私がインストラクターをしていた頃、最も苦労した受講生の方が、何とSEの方でした。この方は、大学院も卒業され、その上私の大学名を言うことが恥ずかしくなるほど、有名な大学院の出身者でした。そして、話しているととても頭がいいことが分かります。にも関わらず、速読が修得できない。この原因の一つが、「字面を追いたい」「文字を読みたい」というこの人の強い読書習慣にあったと私は今でも思っています。

速読法を修得する際の最大の障害は、「本をきちんと読みたい」と言う強い欲求からくることが多いのです。そう言った方への反論としては、きちんと読んだからと言って、分からないものは分からない、と言う事を理解して頂きたいと思います。ゆっくり読もうが、速く読もうが、分からないことは分からないのです。なぜなら、多くの場合、本の文脈を理解できないと言う現象は、頭の悪さもあるのでしょうが、それ以上に当該文献があつかう分野に対する無理解または知識不足などを原因としていると思います。立ち止まり、ゆっくり読んだとしても、その人がアインシュタインや湯川秀樹でもあるならばともかく、そうでもない私の凡人(多分それ以下)にとっては、ゆっくり読むこと以上に、その分野の概略をしる事の方が意義として大きいのでは、と思ったりもしています。

ところで、勘違いして頂きたくないのですが、速聴に代表されるプログラムのみを実践してもそれだけでは、速読法の激しい上達をもたらすという可能性は全くありません。あくまでも、副教材というつもりで行って下さい。資格試験や大学などの受験勉強に役立てたいと思う方は、ご自分の教材を使用し、練習されれば良いでしょうし、それ以外の方は好きな分野の講演などを本やレジュメを見ながら速く聞くという作業もなかなかいけていると思います。

あくまでも、速読の練習の一部、それも小さな一部として練習するようお願いいたします。




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