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速読教室の新たな可能性



実は、私は現行の速読教室がやがて大きな変化に直面するであろうと考えています。その変化とは、 速読理論の純化の過程だと思います。現在大手や準大手とされる速読教室は、さらにその速読教室 が持つ方法論を純化することにより、今以上に勢力をのばして行くでしょう。この純化の過程にお いて、ある速読教室はその方法論を更に先鋭化させるでしょうし、またある速読教室はその方法 論を逆に極端に一般化させる事により、力を増して行くことだと思います。

つまり、この純化の過程は、2つに分かれると思われます。ある教室は、能力開発としての機能や読書の本 質をへと遡り、さらなるスピードと読書に対する味わいを求めるでしょう。

またある教室は、その理論をさらに一般化する事により、受験産業(塾や予備校、そして資格試験な ど)への接近やプログラムの提供が考えられます。スピード以上に、むしろ情報収集に力を置く速読 法としての道があると思います。

そして、この先鋭化と一般化は、どちらも極端な形で現れると思うのです。

では、これ以外に道はないのか、と言うと、私はそうは思わないのです。

「じゃあ、何なんだよ」と言われると、そんなご大層なものではないので、少し困ってしまうのです が、私は速読教室の道として、最後に遺されたもう一つの道は、「読書教室の道ではないか」と考え ています。

多くの速読教室がスピードや読書への味わい、そして情報収集力の育成に力を入れる事は、間違いではありま せんし、むしろ正当な選択と言えます。特に、方法論がしっかりした速読教室は、この両者のどちら かに力点を置く事になると思います(現状も既にそうなってきています)。

では、「新興の速読教室はどうやって生き残るのか」と言えば、私はこの最後の道、つまり読書教室と しての速読教室を選択していく方が良いのでは、と思っているのです。 なぜなら、新興の速読教室(本も出版していない位、新興の教室)の場合、多くの点で、大手と比べ、 教育プログラムとしての完成度はおちるのでは、と思うのです。もちろん、新興の教室の方からすれば、 「そんなことはない」と言いたくなると思いますが、私はそうは思います。

これは、単なる経験の差から来る問題なのです。現在メジャーとなった速読教室の訓練プログラムは、 悪い言葉で言えば、多くの受講生の方の「犠牲」によってより高度なものへと変わっていますし、日々 その方法論は高度化しています。つまり、速読法が受講生によって鍛えられるのです。

これに対し、新興の教室は大手と比べ、絶対的に受講生の方が少ないのです。としますと、速読理論と して例え緻密さを他の大手の団体と比べ有していたとしても、教育プログラムとしての緻密さは落ちる 蓋然性が高いと思うのです。

従って、私はよっぽど緻密なプログラムを掲げない限り、大手の速読教室に決して新興の速読教室が営 業面において、決して勝利することはないと思っています。

もっとも、現在大手の速読教室により、先ほど言いました二つの道は、ほぼ占領された状態にあると思 います。ここになぐり込みをかけようという以上、それなりの展望と教育プログラムとしての緻密さを 新規の速読教室は示す必要があると思います。また、その展望や緻密さが、大手と同様ならば、結局は 二番煎じで終わってしまう可能性が高いでしょう。なんと言っても、大手以上の商品と展望を提示する ことは決して楽な事ではないでしょうから。

そこで、私は速読業界自身に新興の教室は新たな展望を示すべきだと思うのです。すなわち、それが読 書教室としての速読教室です。スピードや情報収集力を競うのでなく、むしろ読書自身を楽しむ手段と しての速読法、さらには本の読み方から教えていくような教室。

もちろん、私は思いつきでこのような事を言っているわけではありません。私が速読教室でインストラ クターをしていた頃、あるインストラクターとも良く話し合ってきた事でもあるのです。また、この性 質の教室は、明らかに社会的ニーズがあると思うのです。

じゃあ、そのニーズって一体なんだ、と思われるかもしれません。 そこで、思い出して頂きたいのです。以前、このホームページで、私は読書のスピードが上がらない原因 の一つとしてあげたことは、何かという事を。それは、、日本語の構造を理解されていない事や本を 読む経験がない事を私は原因の一つとしてあげました。皆さんはこういった方たちが少ないと思われる かもしれませんが、私はそう思いません。むしろ、急激に日本語の構造をを理解していない人たちが増 えているのでは、と思うのです。

「日本語の構造を理解していない」って、お前さんはなんて横柄な奴だ、と怒られそうですね。もう少 し正しい表現に直すと、使用している日本語と、本に書かれた日本語が乖離している人たちが増えてい ると思うのです。つまり、かなり多くの方たちにとって、教科書や本に書かれた日本語が、自分たちが 使用する日本語と異なっているため、本を読む気がしないという事態が起きていると思うのです(まる で、本に書かれた日本語が古典の教科書状態になっているのだと思います)。

私はこういう状態をあまり好ましいものだと思っていません。もちろん、言語が変化する事は無理もな いことだし、止める必要もないでしょう。しかし、いくら消費スピードが速いからと言え、30年前に 書かれた文章の言葉が理解しがたいものというのは、異常な事態だと思うのです。そして、多くの情報 はこういう「古典」の言葉によって書かれている事は事実でしょう。

とするならば、速読教室自身が新たな道として、本の読み方を1から教える様な教室となっても良いと 思うのです。何万字等というスピードよりも、数千字くらいを目安とした教室を目指す。訓練プログラ ムの中に、本の読み方や大意の取り方を盛り込む。こういう速読教室があっても、決して悪いと思わな いし、むしろこの教室が持つ社会的な機能は、決して大手の速読教室に劣るものではないと思うのです。


注 ここで、新興の速読教室というのは、速読教室を開いて5年に満たない教室を指します。また、こ の新興の教室については、一般論に過ぎず、私の提示したケースに当てはまらない場合も当然想定され ると思います。
ただ、私自身がいた教室が新興の教室であり、ノウハウの蓄積という点から言っても、大手に遠く及ば ないものでした。さらに、インストラクターにより、方法論が安定しない事も、私が言っていることを 示す一つの根拠だと思います。

追記 この文章はある速読教室のインストラクターの方とのメールのやりとりの中で思ったことを基に して書きました。新興の教室の中で苦闘するその先生の姿は、かつての私と同じ、いやそれ以上のもの でした。心より、この先生に敬意を表します。そして、本文(こんな雑文でしかありませんが)をその 先生に捧げます。

追記2 最近、風の噂で、ある塾が速聴プログラムを導入し、私がここで提示した道を選択している、 との話を聞きました。その塾とは若干ベクトルが異なりますが、私は面白い試みであると思います。そ の塾の成功を心より祈っております。




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