目次に帰ります 前のページに戻ります





塾と速読(右脳教育)



皆さん、ご機嫌いかがですか。ついに夏休みも終わりです。高校生、中学生、そして小学生の皆様も、今日から学校ですね。楽しいかどうかは、分かりませんが、とにかく夏休みも終わりとなりました。

ところで、前置きはこれくらいにして、今回は「塾と速読」と言うテーマについて考えてみたいと思います。 なんで、このテーマについて書こうかと思ったかと言いますと、単に多くの速読教室が塾にプログラムを提供していて、そのすばらしい成果や限界があるからだけではありません。

実は、みそのホームページにも、塾の経営者の方がアクセスされているようだからなのです。こんな内容のホームページが本当にお役に立てているのか、といつも心配しているのですが、どうも一応悪いお手本くらいにはなれているようです。悪いお手本くらいになれるのならば、一応役には立っている訳ですし、このホームページの社会的な意義があるようです。 そこで、今回のテーマに取り組もうとしたわけです。

それはともかくとして、近時塾や予備校を中心として、速読を導入される所が多いようです。もちろん、導入の理由は様々あるのでしょうし、みその様なお猿さんには、分からない難しい動機が様々あるのだと思います。そこで、みそが偉い塾の経営者の方に聞いた限りの話しだと、一つ目の動機は他の塾との差異を図りたい、と考えているためだと思うのです。

しかし、良く話しを聞いてみると、偉い塾の経営者の方たちはやはり他の動機を、それも遙かに差異を図る等というちっちゃな動機ではなく、他の動機をお持ちの様なのが分かります。 その動機は、単に本が速く読めるとか、情報処理能力が高まる等というものとは、どうも関係ないようなのです。速読を習うことによる人間性の変化とでも言いますでしょうか、そう言ったものに速読を習うプラスアルファに期待され、速読を導入しようとされている事が多いような気がします。

このことを示す証拠として、 その偉い塾の経営者の方は、随分速読や「右脳教育」に関する本を既に下調べされているようでした。明らかに、この経営者の方は、興味があるのは、速読そのものというよりも、心の側面に興味があったようです。

心の側面とか右脳教育などと言いますと、「なんかやばいぜ」と言う気がしないでもないのですが、別にさほど気にする物ではありません。七田眞先生が「右脳教育」と言いますと、ESPカードを使用したりと、少し世間との価値機軸がずれている様な気もしますが、通常「右脳教育」と言いますと、創造性豊かな人間や円満な人格の育成という意味に留まると思います。

そこで、速読がどう塾の先生方が持つこの様な動機を満たす事ができるのか、少し考えてみたいと思います。多分、かなり世間知らずな内容になるかもしれませんし、あまり具体的な内容にならないと思います。でも、反面教師に位はなれるかもしれません。そうであるならば、構わないというのが、基本的なこのホームページの運営方針ですから、これでよしとしてくださいね。

以前、人づてに聞いた話なのですが、ある速読教室の先生が「速読のメリットは学習時間の短縮にある」と言われたそうです。そして、この学習時間が短縮される結果として、余暇を楽しむことができ、結果として円満な人格形成につながる、と述べられたそうです。

確かに、この速読教室の先生の見解の是非はともかくとして、一定の妥当性があるように思われます。しかし、上記に述べた塾の先生方が持つニーズを満たす物ではないことが明らかだと思います。なぜなら、学習時間を短縮する効果を持つ学習法は、別に速読だけではないでしょうし、また少しこの先生の問題意識は塾の経営者の方の問題意識ともずれているような気がしますね。

では、速読を修得するとイメージが豊かになると言うのはどうでしょうか。例えば、速読法によっては文の内容をイメージ化させたり、画像化させる訓練を行う教室もあるようです。そして、イメージ化や画像化すると言う作業が想像力を刺激すると言う事は否定できないような気がします。 そうしますと、この意見は先ほどの見解より一定の妥当性がありそうです。

でも、「画像化」できると言うことの意味が、頭の中で風景をイメージできるという様な事と同視しているのだとするならば、これは少し違う様な気がみそはします。つまり、「画像化」=豊かな想像力とは私には思えないからです。なぜなら、画像化する事が可能だからと言って「創造力」が豊かであるとは限りません。また、「想像力」が豊かであるとは限らないと思うのです。つまり、少ない情報しか得ていない人間が画像化すれば、それは所詮貧困な想像を意味しているに過ぎません。としまと、画像化できると言う能力は、別に豊かな想像力を意味している訳ではないと言えるのではないでしょうか。また、一定訓練によって生み出されるイメージが、人の持つイメージを固定化 しないとも限りません。としますと、これは少し違うんじゃないか、と言う気がしますよね。

じゃあ、速読を修得することで、一体どんな豊かな人間性の育成が計れるのでしょうか。 私は、本を大量に読むことができると言うことに求めるべきだと思うのです。

確かに、右脳が活性化するとか、いろいろ理由はあるのかもしれませんが(この点については、佐々木 速読の科学 や栗田先生の諸著作を参照されて下さい)、やはり本を大量に読むことに求めるべきだと思うのです。

速読法によって得られる読書のスピードは、一ヶ月間に数百冊の本を読むことを可能にします。単純に計算したとしても、一年で千冊以上の本を読むことが可能です。通常、千冊と言えば、平均的な日本人が人生を通じ読む本の量より多いのではないでしょうか。

そして、本を読むことを著者との対話であると考えれば、一年で千人以上の偉大な人物や賢人と呼ばれる人たちと対話をかさねて、性格に変化があらわれないはずもないでしょう。現れなければ、むしろ不自然だとも言えます

また、単に読書を情報を摂取する一手段であると考えたとしても、大量にそして反復継続し、体系化された知識は、単に記憶の定着率が高いばかりでなく、新たな考え方を提供する事が可能であると言うことも以前説明した通りであると思うのです。

こうした意味において、速読を修得することによる円満な人格の育成や豊かな創造性は、語られるべきだと思うのですが、どうでしょうか。

もちろん、私が述べた事はあくまでも一般論にすぎません。問題は、いかに速読教室が塾に対し、より具体的なプランを提示できるかだと思います。なぜならば、上述した速読教室にとって最良のお客様の一人と思える方が、そのような要求をされているのです。


ところで、、日本速読教育連盟健康能率研究所、そしてSRS等の教室が受講生の方たちの受講後の心境の変化を報告しています(佐々木 速読の科学、健康能率研究所のホームページ、SRS発行のパンフレットを参照して下さい)。この報告を見ると、明らかに受講体験記を求めた側(つまり教室です)が、速読を修得し大量に読書を行ったり、大量の情報摂取を行った結果を聞いている様な傾向があります。このことは極めて高く評価されるべきことだと思うのです。

なぜらば、こうした事後と事前の自分を見比べることにより、受講生は自分の変化を知ることができるばかりでなく、速読教室側もいかなる変化が受講生の方に訪れたのか知る事が可能だからです。そして、こうした事例の細かな積み重ねによって、はじめて速読法を修得することによっていかなる変化が訪れ、そしてこの変化を効率的にもたらすためにはいかなるプログラムが必要なのか、初めて明確にできると思います。 こうした意味においてもまた、速読法は受講生の方たちによって鍛えられると言えるのだと思います。

 

注 以前、私は速読法とは、本を速く読む技術に過ぎないと述べています。しかし、個人的に今回の述べたことと、以前述べていた事が対立するとは思いません。なぜならば、私は本を読むという作業が極めて人間に強く影響を及ぼす作業であると考えているためです。詳しくは、ここを参照して下さい。


追記  寺田さんのホームページに、最近ある塾の先生が、SRRのプログラムを使用し、新たな局面を作り出そうとされているとの記事が載っていました。そして、このプログラムの開発過程を一定公開されるそうです。がんばって頂きたいなーと思います。プログラムの開発過程を公開するという事自体がそもそもすばらしいのですが、塾を経営されている方(だと思います)が、教育プログラムとしての速読法の具体化を行おうとしている(これは本来速読教室の仕事だと思う)事もまたすごいことだなーと思ってしまいます。




目次に戻ります 前のページに戻ります もっと読んでみたい
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送