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右脳開発と速読



最初のページでも言ったんだけど、速読教室の多くは速読法を能力開発の一 環としてとらえているふしがあります。もちろん、はっきりそう言えるのかどうかは、少し怪しいとこ ろもあると思うのですが、最低限速読法が能力開発の一種であると考えている事は疑いもない現実だと 思います。

実を言いますと、みそも速読を修得していく中で、本を今まで以上に味わい深く読むという事ができる ようになりました。もちろん、それは右脳が開発されたからなのか、それとも本を読む量が更に増えた からなのか、はたまた私の幻想なのかわかりませんが。ただ、多くの速読教室は右脳開発の根拠を医学 的な観点から説明されている(各種速読教室の本やパンフレットを参照されて下さい)ようなので、多 分みその幻想では少なくともないのでしょう。

ところで、みそは最初に速読法は所詮本を速く読む技術にすぎないと宣言しました。しかし、先ほども 言ったように速読法の修得の成果として、本をより味わい深く読むことができるようになった、と言っ ています。なんか矛盾したことを言っているわけですね。

ところが、みそ個人としては実はあまり矛盾していないのです。なぜなら、みそは例え個人的にはこの ような実感があったとしても、みそとしては速読法とは右脳開発のためにすると言った観点をあまり強 く押し出そうとは思っていないのです。いや、むしろ押し出さない方が良いのではとすら考えているの です。

その理由は、そんなに難しくはありません。もっとも一つの理由からではないのですが。

最初の理由は、あんまり潜在能力開発とか言うとなんか怪しい響きがするからです。大体、「潜在能力 開発」とは一体どういう意味なのでしょうか。また、度々聞く「右脳を開く」とはどういう意味なの か。潜在能力の開発など言うと、なんか超能力者になりそうな気がしてくるし、また右脳を開く等言 われると、みそは自分の頭蓋骨を開けられてしまいそうな気がして嫌なのです。つまり、こういった 定義自体が曖昧な言葉を振り回したくない、という気持ちが実はあるのです。

もちろん、これらの言葉の意味がもう少し世間一般の中で定着している等という状況があれば、別に どんどん言えばいいと思うのです。しかし、現実さほど世間に定着している訳でもない以上、こう いったいろいろな意味をもちそうな言葉を強調する事はあまり良くないのではないのかなー、と思っ ています。

じゃあ「理由はそれだけなんだ」と言われると、まだあったりします。この理由は第一の理由と実は関 連があるんですけど、やっぱ速読って怪しいものと考えられている場合が多いです。通常、 世間の通常の感覚から言えば、一分間に一万字なんて言うスピードは非常識なスピードだと思います。 知らない人たちが怪しいと速読法の事を思うのは普通の感覚だと思います。こういった土壌がある上 に、潜在能力開発とか右脳開発とか、難しい事を言われてしまうと、なんかこうますます怪しさ大全開 という感じすらするわけです。

特に、これらの言葉が速読業界では極めて身近な言葉でも、一般社会ではあまり身近な言葉とは言えな いと思うんでね。

確かに、速読教室にいらっしゃる受講生の方たちの中には、潜在能力の開発とか右脳開発と言われる事 にすごく興味のある方たちがいらっしゃいます。また、インストラクターの中にもそう言う方がいらっ しゃる場合があると思います。事実、みそがいた速読教室でもかなり速読マニアというより潜在能力開 発マニアという感じの受講生の方がいらっしゃいましたし、インストラクターの中にも同様の方がいらっ しゃいました。

でも、そういう希望を持たれる方は、実は少ないじゃないかなーとするわけです。他の速読教室の経営 者の方に聞いたわけではないので分かりませんが、みそのいた速読教室では少なくとも速読法を修得し 本を速く読みたいという受講生の方が大半でした。

もっとも、速読教室を経営する側としては速読法とは素晴らしいものであるという考えがあるので、こ う速読によるメリットを全部書かなきゃとか思ってしまうのかもしれないのは無理もない事だとは思う のですが。やっぱり、そのせいで怪しげな潜在能力開発とかとセットにされてしまうのは、ともみそと しては思うのですが。

という訳で、みそとしては決して速読に潜在能力開発や右脳開発という側面があることを否定はしませ んが、やはり速読法とは本を速く読む事であると言い切るべきだと思っているのです。




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