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読むことと見ること

 

以前私はこのホームページで、速読とは「見る」と言う事を中心とした読書の仕方であると言いました。この点を変更するつもりもありませんし、変えるつもりもありません。

もう少し、つっこんだいい方をしますと、ちょっと誤解を招く様ないい方になると思いますが、速読とは「見ながら、読む」と言う二つの作業を同時に行う読書の仕方だと思います。ある分野の専門家の方に(この方は非常に社会的な地位も高く、研究者としても一流の方です)、速読とはある意味二つの異なる作業を同時に行う事に過ぎないと言われた事がありますが、この言葉はある意味速読の本質を明らかにしたものと言えると思います。

ところで、この専門家の方のように普段から大量の資料を読む習慣があり、そのため結果的には速読教室にお金を寄付する必要がない方はともかくとして、私の様に何の取り柄もない人間にとっては、なかなか見ながら読むという活動を同時にしろなんて、と思ってしまいます。まして、私の様にまともに勉強すらした事がない人間にとりましては、そんな事はなかなかできるものではありません。

そこで、今回いかにして見ながら、理解すると言う境地にたどり着くのか、と言う事について考えてみたいと思います。

まず最初にこのことを考える際に、私は理解すると言う事はその人間が持つ既存の知識や経験に大きく決定されると考えています。つまり、知識が多ければ多いほど、一般論として理解の深さは深いと私が考えていると言う事です。この事を否定する教室に通われている方には、私の考え方は当てはまらないと言う事を前もって述べておきたいと思います。もちろん、私の考え方が正しいかどうかは、私は学者でも専門家でもないので、分かりません。その点については、皆さまが検討されれば良いことであり、「便所の落書き」に過ぎないこのホームページでは関係のない事です(このホームページは私の個人的な意見を述べる場所に過ぎず、真理を追究する場所ではありません)。

ところで、私の様な考え方をとり、所謂「二行読みや三行読み」を行う事を目的とする方法論を是とする場合、私は見ること→理解することとなるを可能にする方法は、その人が読みたいと思う本が取り扱う知識を増やす事が最初に必要だと思われます。なぜならば、複数行を読んでいくと言う作業自体が、推測という事を前提にして進む物だからです。この事を最初に明言したのが、ジョイント式速読法の創始者である川村明宏博士です。彼の言うジョイント式とは自分が持つ経験などと「ジョイントし」、読書を行うと言うものなのですが(詳しくは速読トレーニングなどを参照)、読書のある意味本質を明らかにしたものと言えるでしょう。

また、栗田博士の提言する「分散入力」にしても、脳の中でいかなるメカニズムにおいて処理されるかはともかく(私はあまり速読の科学的なメカニズムに興味がありません。なぜなら、私は専門家ではないため、確証を得るための機会も能力もないためです)、その人の持つ想像力(創造力)の発達などを抜きにして語れる物ではないでしょう。そのためだと思うのですが、栗田先生の教室では様々な脳力開発の(どちらかというと創造性の発達に関する)クラスが設定されています(この点は私の推測に過ぎません)。

これらの諸教室のクラス設定や速読の考え方からしますと、速読に必要なことは想像力であると言えるのではと私はおもいます。また、私のように想像力の深さもまた知識や経験の多寡によって決定されると言う立場からいたしますと、このような読書に必要とされる想像力も学習により後天的に身につける他ない問題になると思います。

ところで、知識や経験、そして想像力(栗田先生の場合は、意味が異なって使用されているとは思いますが)のみにで、速読ができるかというとそんな事はないと思います。なぜならば、いくら大量の知識を持っていたとしても、それを使う事ができなければ、それらの知識は絵に描いた餅に過ぎないでしょう。つまり、速読をするために必要だと思われる頭の使い方を覚えない限り、それらの大量に蓄積された知識は速読をするという観点からは、無意味だと思われます。

この点に関して言いますと、関西の方で急激に力を伸ばしつつあるSP速読学院のホームページを見ると、いくつかヒントになる事があるように思うのです。この教室のホームページによりますと、速読とは「スポーツ」の様な物だそうです(私もそう思います)。つまり、理屈よりも、型の様な物を重視する読書であるという事を言いたいのでしょう。

そのためか、多くの教室がなぜか同じ本(または文章を用いて)を使い、訓練を行う事が多いのは、そのためだと思います。つまり、同じ文章を使用する事で、頭を速読できるように慣れさせると言う事が必要だと言う事なのでしょう。

また、単語帳の親戚のような物をペラペラとめくる訓練もありますが、この点についても同様だと思います(この訓練は比較的ポピュラーな物だと思います)。つまり、単語帳の様な物をめくる事で、文章よりも単語ならば抵抗が低いため、見る=理解すると言う事を可能にしていくための訓練と言えるのでしょう。

と言うことを考えると、頭の使い方を覚えると言う事は非常に大切な事のように思えます。多くの教室で行われている訓練もこの点に照準が当てられている様に思うからです。

じゃあ、それだけで可能なのかと言いますと、私にはそうでもないように思われます。

最後の点なのですが、私は結局速読というものは、慣れでしかないように思います。教室でいくら頭の使い方を習っても、家に帰って練習もしないし、実践もしないと言うのであれば、結局何の意味もありません。速読をスポーツの様な物であるとするならば、いくら練習用の写真を眺めても、それだけでうまくなる人はいないと思うからです。

そのためにも、一定のスピードに達した場合、多くの本を読むと言う事が必要になると思うのです(ある教室では、一日に何冊本が読めるのか競う会があるそうですが、この会は極めて有益な物と言えるでしょう)。本を読めば読むほど、その力は定着する方向に向かうと思います。そのためにも、習い初めの頃から、日頃以上に新聞や週刊誌などで結構ですので、見て読むと言う習慣を付ける事が大切だと思います(新聞ならば、比較的理解もしやすいです。一行が短いですから)。

見る→読むと言う事の間には、ちょっとした段差があるように思えますが、その段差は高い物ではありませんが、決して低い物ではないと私は思います。その段差をうまく越えていける事を、心より祈っております。



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