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理解するという事について




速読をしていると言うと、よく言われるのが「本当にお前さん、本読んでいるのかよ」と言うことです。

確かに、変ですよね。だって、通常のスピードで本を読んでいるならばともかく、その十倍、いや百倍のスピードで本を読んでいる訳ですから。 そう言われてみると、おかしくも思えます。

そのため、ある速読教室では本を速読した後で、書取テストをしてみたり、あらすじを言わせてみたりとか等と、様々なチェックをする事で、速読の客観性を高める努力がなされたりしているようです。

実は、私はあまりこういう試みが悪いとは言いませんが、好きではありません。その理由は、本の内容を理解すると言うことは、テストでいい点を取ったり、あらすじが言えるという事とは別のことだと思うからです。

例えば、私に医学書を持ってきて、「読んでごらん」と言われても、速読はもちろんの事、通常の読書スタイルでその本を読んだとしても、私は全く理解できないと思うのです(試すまでもないでしょう)。また、私と学者の先生がその学者の研究分野に関する本を一緒に読んだとしても、私が例え速く読めたとしても、私は学者の先生が読んだ本の半分も理解できないばかりか、多分その本の作者の偉大さも学説のすばらしさも全くと言って良いほど、理解できないと思います(この点に関しても試すまでもないでしょう)。

速読等という「こじゃれた」名前をつけたとしても、所詮速読は読書の方法に過ぎず、その理解の深さはその人の知識や経験などに限定されてしまうのでは、と私は思います。

ところで、先日ある方よりメールを頂きました。この方によるならば、読書における本の理解の深さは、読み手の知性や知能によって決定されるのでは、とのご指摘でした。

確かに、一見するとこの方の見解は妥当性があるような気がします。知性がある人の方が、ない人よりも本も読めそうですし、知能がある方の方が、本も良く読めそうです。先述したように、私は速読を読書の一形態としてしか考えていませんので、この方の見解は納得できるように思えます。

しかし、私はこの方の意見には納得できないのです。

その理由は、簡単です。知能や知性というものが何なのか私には分からないのです。

確かに、一般的に知性、知能等という言葉は使われていますし、心理学や教育学の本にも出てくる概念です。

しかし、それを判断する基準は何なのでしょうか。

知能指数と言う規準がそれにあたるのかもしれません。しかし、知能テストなどが盛んに行われた時代もあるようですが、現在その規準が一面的である等の指摘が行われているようですし、私自身知能テストで示された規準がその人間の知能を図る手段として適切なのか、という気がします。ある塾の先生から聞いたのですが、ある子どもたちに知能テストを受ける前に、同様のテストをさんざん解いてもらうそうです。すると、面白いくらいにテストのスコアがのび、本番のテストでは素晴らしい点数を取るんだと事だそうです。知能テストもテストですから、そのための対策を行えば、当然点数はグングン上がると思います。とすると、この一点で知能テストの有効性を否定することはできないかもしれませんが、テスト対策をされたくらいでグングン点数があがるような物を、人間の知性や知能を図る手段だと考えるのは、おかしいと思うのです。

また、知性というものが、他人と他人とを比較し、その序列を求めるような性格のものなのか、ちょっと疑わしいような気がします。知性と言う言葉をいかなるレベルで使うかによって異なるでしょうが、私には知性とは知識や経験、その人の性格的な物、信条、行動などを含みかつ止揚した本質的な概念の様な気がするのです。としますと、知性が高いと言うことをいかに客観的に示すのかは、困難を極めるでしょう。なぜなら、その人の知識の多寡は所詮知性と呼ばれる物の一つの現れに過ぎないでしょうし、その人の信条の高潔さもまた知性の現れに過ぎないからです。

また、一般論として知性や知能が高い人ほど本に対する読書の深さも深いのではと言えそうですが、私はそうは思いません。なぜなら、私より遙かに知性があると思われる方にしても、ご自分の専門分野でもない本を読んだとしても、その内容に対する理解はほとんど深まらないと思うのです。

例えば、以前ある方とよくメールのやりとりをしていたのですが、その方は「権利」と言う言葉を持つ意味を学術的にも完全に勘違いされていました。この方は非常に優秀な方なのですが(少なくとも学校のお勉強は良くできた方でしたし、社会のエリートと呼ばれる資格がある方だと思いますが)、残念なことに憲法の本を良く読まれている様なのですが、全く「権利の内在的制約」や「個人主義」「公共の福祉」と言うことを誤読されていました。通常、一般教養課程においても習うような単純な話しなのですが、その方は完全にその部分を誤解されているのです。 そんな優秀な方ですら、憲法を習えば必ず出てくる様な概念を読み落とす(または理解できない)事があるようです。

別に、私はこの方が馬鹿だから読めなかったのだとは思いません。単に、その方は権利という物の性質を私よりちょっとご存じないだけだったと思うのです。つまり、知識や体系が理解されていないため、私のように専門家でも何でもない人が読んで理解できるような内容が、本を読んだとしても、理解できないという事なのではないでしょうか。

結局、本を読み、理解するという行為は、その人間が過去に持った経験や認識の度合いにより、深さが決定されるというものなのではないか、と結論づけられる様な気がするのです。

もう少し言うならば、人間の行為は過去の行為や認識に大きく影響されるものだと言えるでしょう。読書もまた人間の行為であるがゆえに、読書という活動をする際に、過去に得た経験や知識などを駆使し、本を読み、またその本を読むという行為から得られた結果や他の行為から得た結果に基づき、新たな読書を行うため、同じ本を読んだとしても、時が過ぎると感想や本に対するスタンスが変わるといえるだけの話しだとも思うのです。威張って言うほどの話しでもないのですが。

この様な私の立場からいたしますと、本への理解の深さは、その人の知識や経験などによって決定されるという事になります。そのため、テストなんかで、深さが分かるのかと言いますと、ちょっと疑問だなと思うわけです。はっきり言えば、読書というのは半分以上自己満足なのだから、「他人様がとやかく言うもんじゃありませんよ」というのが私の正直な所です。これは、速読においても同様の事だと思います。

とは言え、社会的なニーズを満たすという観点から、速読教室がこの様なテストを行うことを非難する気はさらさらありません。速読教室は別に慈善事業体ではありませんし、効率的に記憶できる等の方法があるならば、ジャンジャンそのような訓練を行い成果を上げるべきだと思います。むしろ、この様な活動が速読法の有効性を世間に知らせることになるでしょうから、私としては好ましいとすら思う位です。

と言うことで、私としては知性や知能という事が速読をした際の理解の深さを決定する根本的な要素じゃないぜ、と言うことが結論と言えるのだと思います。そして、読書の深さというのは、「その人間が蓄積した経験や知識などによって決定されるんじゃないかなー」と思うわけです。


追記 以前、記憶速読の才能に関して、書いた時にも、この様な立場をとってますよ、と書いた事があります。今でも、その考えを変える気はありません。 なんで変えないんだと言われますと、「別に変えなくても私には不自由な事がないから」だとしか言いようがありません。また、他の人に聞いても、「常識的な話しなんじゃない」(つまり、面白みも新鮮さもない考え)であるそうなので、しがない読書マニアにしかすぎない私にふさわしい結論であると思っている訳です。





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