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癖は癖




この間、いろいろの方より質問をいただいた事で、癖って何なんだと言うお話が実はあります。

実を申しますと、この点はあまり問題にはなっていない点でもあるのです。なぜなら、通常速読教室のプログラムは、一度も速読教室に行った事がない人を対象に作成されております。そして、一度も速読教室なんて言う風変わりな所に一度も行った事がない人の方が、お客様としても遙かに量的にも多いため、独立して一度でも速読教室に行った事がある人用のプログラムを作成する等という事は、必要性も極めて低いのです。そのため、あまり一度でも教室に行った事がある方用のプログラムを作る事も、あまりないと言えると思います。

ところで、市場としては遙かに小さいのだけれど、実を言うと潜在的に速読教室に一度訪れた方が、再び訪れると言うケースは決して小さくはありません。私自身、そう言う何人かの受講生の方にお会いした事がありますし、また営業活動として行っている時にそう言った方とお会いした事があります。 しかし、以前も述べました様に、実を申しますと一度挫折した方の数値を上げると言う事は楽な事ではありません。それにはいくつかの理由があったりするのです。

まず、速読教室はいろいろな言葉を用いていますが、実を言いますと同じ言葉が使われていても、その意味合いが違う事が度々あります。つまり、ある教室では、Aと言う意味合いで使用されていた言葉が、違った教室に行くとBと言う意味で使用されている事があるのです。そのため、受講生の方からすれば何を言われているのか分からないならば良いのですが、混乱し、勘違いしてしまう事が良くあるのです。 その良い例となるのが、実を言うとキム式と言う言葉です。多くの速読教室がまるで親の仇の様に批判するこのキム式と言う言葉なのですが、実を言いますとキム式の意味内容は、教室によって全く異なっています。

例えば、佐々木博士が運営されている教室では「キム式」=非合理な方法論と言う意味合いで書かれていますが、川村博士の教室では厳しい訓練を行い速読法をエリートの物へと変えてしまった方法論と言う事になります。また、斉藤博士の本によりますと、キム式とは目的意識性をあまり考えない方法論となるような気がします。つまり、同じキム式と言ってもその内容は若干ではあるものの異なるのです。

この様な違いが出るのは、以前も申しましたように、キム式をいかにのりこえるのか、と言う問題意識から速読教室が出発しているために他なりません。いかにキム式を考えるのかと言う結論から、現在存在する速読教室のプログラムは作成されているのです。詳しくは、自分が気に入った教室の本を読んでいただきたいのですが、どの教室も必ずと言って良いほど、キム式の批判について触れられています。

しかし、この問題は実は単なる言葉の差に留まらないのです。キム式をベースにしようが、しまいが、そののりこえ方が異なると、同じ様な訓練でもあるにも関わらず、その訓練が意図するものがかなり異なってくると言うあたりが現状の様に思えます。 目の運動が一番分かりやすいのですが、似たような退屈極まりない訓練でもあるに関わらず、結構その目的が異なったりしています。ちょっと、この点はこのホームページで触れると、他の教室にご迷惑をかけそうなので触れませんが、明らかに異なっています。

また、記憶と言う要素にしても同様です。ある教室では記憶と言う要素を重視しますが、この要素を含むか含まないかによっても、一分間で何文字読めるのかと言う数値は変わってきます。例えば、ある教室では読書をした後にどのくらい内容を覚えているのかを試したりするのですが、当然この様な環境で行えば、記憶を要素としない教室よりも、タイムは遅くなります。なぜなら、受講生の方からすれば、内容を覚えておかなければならないと言う観念にとりつかれますから。また、書き出し訓練を行う教室も同様です。

もちろん、私はこの様な訓練を行う事の是非をここで述べるつもりはありません。別に、書き出し訓練自体が悪い物ではありませんし、誰が何をしようが、効果があるならば、私は自由だと思います。また、いかなる目の動かし方を教えようと、それも自由だと思うのです。

ここで私が問題としたいのは、目の運動や本を読んで要求される成果が異なる場合、見かけは同じでもゴールが全く異なると言う事です。そして、この異なるゴールを受講生の方が理解していれば何の問題もありません。しかし、この様な違いを理解するためには、私は最低でも一つの速読法を理解している必要があると思います。なぜなら、一つの速読法を理解し、マスターしていない場合、比較をする対象がないため、一体何が違うのかが全く分からないためです。

ところが、いくつかの教室を渡り歩かれてしまった受講生の方の場合、一つの速読法を理解していないため、渡り歩くケースが圧倒的に多いと思われます。そのような方がいくつかの速読教室を渡り歩かれると、この微妙な速読教室間の違いに気付かれない事が圧倒的に多いのです。そして、この違いは時として、致命的な問題である事も多いのです。ある教室では、良いとされている傾向が、異なる教室に行くとダメとなる事も多くあります。そのため、せっかく前の教室で身につけた習慣を、違う教室に行ったために習慣をやめる事になります。

しかし、残念な事に癖を直すことは大変な事なのです。なぜなら、速読教室においては、一つの訓練が理解という事でなく、条件反射になるまで訓練を行います。そのため、余計この身につけた習慣は直すことができないのです。 そのため、私は速読教室をコロコロ変える事を良い事だとは思いません。まして、現状の様に多くの速読教室が存在し、更に大手の教室の分派が極めて多い状況の中、コロコロ教室を変える事はあまり良いことだとは私には思えないのです。




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