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ゆっくり読みたくならないの




実は先日ある方より、質問を頂きました。実に鋭い質問です。 それは、たまにはゆっくり熟読しながら本を読みたくならないのか、と言う事でした。

この質問、なかなか実を言いますと、鋭い質問なのです。それは、各速読教室が持つ速読感とも大きく関わった質問でも実はあったりするからです。そのため、かなり答えにくいと言う事もあるのですが、あえて問題にならないと思われる程度で、お答えします。

まず、以前も言ったと思うのですが、基本的に速読教室と言うのは、「速読法を読書と言うものをどうとられるか」により、かなり速読法が持つ意味が変わってきます。

例えば、ある教室は速読法を究極の読書ととらえています。これに対し、速読法と言うものは所詮情報を摂取する手段に過ぎないと考えている教室もあるのです。この両者の中間をいくのが、多分斉藤先生の教室だと思います。斉藤先生の特色は、読書の仕方を目的により変化させると言う事にあるようですので、この両者の中間に当たるような気がします。

ところで、速読法を究極の読書形態と考えると、ゆっくり読む必要などと言う事は、そもそも話題にのぼるはずもありません。なぜなら、速読こそが唯一の読書法であるからです。追体験など呼ばれる知的な活動も、速読を行う事により、より豊かにそして深く行われると考えられそうです(論理的な帰結だと思います)。そのため、速読法を極めていくことこそが、真の熟読となるのでしょう。

これに対し、情報を摂取すると言う事を速読法の主な目的とする教室の場合どうなるのでしょう。やはり、スピードを落とすと言う事が、その論理的な帰結とも思われるのですが、多分そうは言わないと思います。むしろ、読む回数を増やすと言う事により、熟読をはかると言うと思います(この点については、新日本速読研究会が監修した速読法殺人事件に出てきます)。つまり、読む回数を増やすことにより、より本の理解度を上げていくと言う事で対処しそうな気がします。

どっちが正しいのかと言う事を、私に良く聞く人がいるのですが、私のようなしがない読書マニアにそのような難しい質問をする事は間違っているような気がします。私は、読書の仕方等どちらでも良いと真剣に思っています。そんなの個人の自由だし、勝手に自分で決めれば良いことです。

じゃあ、「お前さんはどう思っているの」と聞かれると、私は多分前者を選ぶと思います。私自身は、速読法を修得することで、より深く本を読めるようになったと言う実感を持っています。ただ、以前も言ったと思うのですが、それが脳が開発されたせいなのか(開発されてこの程度だと悲しいので、多分開発されていないのだと思います)、それとも読書量が増えたからなのか、それは分かりません。

ただ、私の実感から言いますと、やはり速読と言うのはやはり新しい読書の形に留まらないと言う所があるのかなーと思っています。

とは言うものの、速読法だけが正しい読書形態なのかと聞かれれば、多分それは違うと思います。人にはそれぞれペースや趣味と言う物があります。それをあえて変えろ等言う権利は誰にもないような気がしますし。また、私が理解していると思っている事が、果たして本当に理解できているのかと言うと、それは誰にも分からない事ですから。

と言う事で、私はあんまりゆっくり本を読もうとする傾向が今ではありません。それが良い事なのか、悪い事なのか、それは誰にも分からないのだけど、今の所はない、これが結論となる訳です。



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