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掲示板において

 

以下は、掲示板上において、Qさんの質問に答えて、私が3月3日に書き込んだ物です。基本的に反論にこたえてで書いた物と変わりません。以下、転載します。

2ちゃんねるの方に書き込もうと思ったら、書き込めないので、少し困っていました。 何か最近パソコンの調子が。頭が痛い話です。

その点なのですが、私はどちらでも良いと思っています。多分、今回のがらみさんは できないと言う前提でお話を進めている様ですが、それならそれは、構わないと思い ます。なぜなら、全くその点を主張されても、複数行読みの利点は失われないからで す。

速読の眼の動きと言うのは、もっとも情報入力量を増やす様に考えられています(こ れは複数行読みを前提としない教室の場合余計です)。入力と言う事に対し、もっとも 適切な眼の動きを確立しましょうぜ、と言うのが、速読のアルファでありオメガです。 そして、もっとも眼に負担をかけず(眼に負担をかけた動きだと、移動スピードが落 ち、結果として情報入力量が減ります)、そしてもっとも効率的かつ最大限の入力を実 現しようとしたのが、複数行読みです(この点を書き落としたのが、悪いのかもしれま せん。私はついこのことは前提になっているのだと思いました)。ご迷惑をおかけしま した。

要は、眼の動きを確立すると言う事は、情報を摂取すると言う大目的の手段にこの場 合はあたると言うだけの話です。まとめれば、文字の入力を最大限に上げようと言う 大目的に奉仕する手段が、眼の動きであり、更にこの眼の動きを実現するために、 ブロックの幅を拡大していきましょうと言う話にしか過ぎません。複数行読みを前提と しなければ、数珠の様に眼に文字が切れ目なく入力するために、眼の動きを獲得し ましょうぜ、となり、この眼の動きを確立するてめに、眼の動きとセットになった視野の 拡大を行いましょうねと言う話になるだけです。この両者の違いは文字通りストーリー の違いと言うべきでしょう)。

そして、この理想的なラインを決定するために、すべてのプログラムは組まれるべき だし、その場で使える速読法としては読み方の工夫で勝負しましょうぜと言うの が、「過渡的」な手段として、私がこの間考えてきた事です。

そうなると、複数行読みの欠陥と言う事が問題になるんですよね。そこで、やっと今回 のQさんのご質問となります。

この点は否定、賛成いろいろあると思うのですが、私ははっきり言ってどちらでも良い と思います。

なぜなら、あんまり反対する人がいっている事は、複数行読みを根底から揺るがす程、痛いものではないからです(私の頭の中では、複数行読みと複数行読みを前提と しない読み方が仲良く同居しています)。

例えば、複数行読みができないと言う反論として、少なくとも新聞なら、ランダムに情報が入力される事が可能ではないかと言う物があります。こういうと、たいてい反対す る方は、新聞は文字数が少ないから可能であるとの反論します。しかし、文字数が少 ないから可能なんだとか、文字数が多いから不可能だと言うのは、不自然さを覚えます。この批判は、文字数が少ない場合ランダムに入力された情報も統合可能である と言う事を示しているに過ぎません。批判として、複数行読みを根本から突き崩す物 になっていません。文字数が少なければできるなら、文字数を増やして行けばいい じゃんと言う話だし。

次に考えられる批判として、実は複数行で読んだ場合は、読めてなくて、記憶の端に 残っているだけなんだと言うお話もあります。でも、この批判に対しては居直りも可能 です。記憶の端に残っているなら、次にペースを落とす事で、この端に残った物を 拾っていけば、より効率的に読めるんじゃないかなと言う話です(だから、私は全体と 個別と言う事を意識して読もうと言うだけです。これなら、この批判が回避できますか ら)。

最後に、できる人はできるけど、なかなかできない人はできないんだと言うご批判もあ ります。こんな話を聞くと、私なんか、私って偉いと思ってしまいますが、よく自分の顔 を鏡で見ると、やはり頭が悪そうな顔をしています。どうも、私はお馬鹿さんの様なのですが、違うのでしょうかと思ってしまいます(ちゃかして、ごめんなさいね)。

要は肯定するなら、そのまま複数行読みとしては万々歳だし、否定されても、あんまり 痛くないと言うよりも、じゃあその欠陥は読み方でクリアーしていきましょうぜ、と言う 話にしかならない様な気がします(これは、斉藤先生などが先人として開拓された分野です)。

となると、欠陥がないよう(誤字を訂正)に思えるのですが、やっぱり最終的な欠陥と言うか問題点は、 充実感(意識においてあまり理解を伴った入力がされた感じがし)ないと言う事につきるような気がします。だからこそ、読んでいる回数を増やすのでなく、読み方そのもの に工夫を加えましょうぜと言う話になるような気がします。意識下と言う物を想定しよう としまいと、また顕在意識と顕在化しない意識の底と言う物を肯定しようとしまいと、 だって、最初ぱーっと見て、次に一行読みなり、なんなりで読むと、速く読めますぜと 言う話の様に私には思えます。工夫の問題で解決できるなら、私は解決したいと思い ます。

もちろん、他の方が、こんな方法最低じゃんと言うなら、どうぞ他の方法でおやり下さい、あくまでここで提供されている事は、工夫レベルの話でしかありませんよと言う話なんですけどね。

基本的な論調は変わっていないと思います。私自身は、速読法に違いがあると言う事を肯定する立場に属しています。それは、私が二つの速読法を使うと言う事にも原因があると思うのですが、むしろ私の性格上の問題でもあるような気がします。

確かに、この問題は重要な問題かもしれません。しかし、この問題を重要と考えるか否かは、その方が属されている教室、または影響下にある方法論によって決まるはずです。そして、この選ばれた方法論は、その方の速読を習う目的によって、更に決まるはずなのです。主体的か否かと言う事を決めるのは、その方の読書に対する向き合い方を決めるか否かによって決まる事であり、正しい、間違っているの問題ではないと私には思われます。



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